現場ドキュメント: 2010年11月アーカイブ

  • 経営施策を推進させるためには、経営課題を自らの問題と捉え、その解決に向けて周囲をリードしながら主体的に行動できるリーダー人財は必要不可欠である。では、そのような人財はどの様にして育つのか。楠見氏のインタビューから、「経験」「論理」「志」という三つの側面が浮かび上がる。入社4年目にインド市場を一人で担当、入社10年目には中国での現地法人立上げ、という立場を超える様な難易度の高い「経験」、社長直轄の次世代リーダー養成プログラム『ホーユー塾』を通じて獲得した「論理」、そして(会社を変えることを)「誰かがやらなければいけないという覚悟が芽生えた」という「志」。すべての経営施策は、実行されて成果に結びつかなければ「絵に描いた餅」でしかない。そのためには、「経験」「論理」「志」を持ち合わせたリーダー、即ち、経営施策を高い視点で捉え、現場で主体的に遂行していくリーダーの存在が極めて重要となる。
    (聞き手:OBT協会 伊藤みづほ)


    ホーユー株式会社 欧米営業部欧阿課 課長
    楠見育久さん(43歳)

    楠見さんは、ヘアカラーのトップメーカー、ホーユーで入社以来、海外営業ひと筋に歩んでこられました。入社4年目にして広大なインド市場を一人で担当。入社10年目には中国での現地法人の立ち上げをゼロから任され、中国市場開拓の中核を担ってこられました。どのようなご経験によって今の楠見さんが形作られたのか。楠見さんの強靭な意思と行動力の源は何か。じっくりと語っていただきました。


  • くすみ・いくひさ

    1966年生まれ。大学卒業後、ホーユーに入社。国際営業部でインド、ネパール、バングラディシュ、パキスタン、スリランカなどを約8年間担当した後、中国法人の立ち上げを手がけ現地に約7年間駐在。2009年に欧阿課の課長に就任し、ヨーロッパ、南アジア、中東・アフリカ市場での営業の指揮を執る。

    ホーユー株式会社 http://www.hoyu.co.jp/

    ヘアカラー国内市場のシェアトップを誇る、創業100年を超える老舗企業。海外市場においても9カ国に営業拠点・現地法人を置き、70カ国に代理店網を構築。さらなる海外展開の強化を目指している。創業/1905年、資本金/9,800万円、従業員数/875名(2010年2月1日現在)、売上高/394億円(2009年10月期)

  • 人は、守るべきものがあると強くなれる

    伊藤 楠見さんはこれまで、さまざまな海外の市場を切り開いてこられました。文化も習慣も違う国でビジネスをする上で、どのようなことを大切にしてこられたのでしょうか。

    楠見 とにかく現場に行くということですね。行って、直接会って話してみないとわからない。それはいつも考えていました。自分で見聞きして得ることと、人から聞いたことは、やはり違うんですよ。

    もう一つは、ホーユー目線ではなく、相手の立場になって考えるということです。例えば、当社の代理店の多くがファミリービジネスで、ホーユーの商品がメインです。その売り上げをなくしたら、家族を養っていけないわけです。それぞれの国々で販売を作って事業を何とかしなければ、代理店の家族が路頭に迷う。この思いが僕のベースになっています。

    でも、入社当時からこういった考えでいたわけではなくて、新人の頃は課長にいわれたことをやっていただけでした。それが入社4年目から一人で担当国を持つようになり(前編参照)、代理店とも仲良くなって。

    自宅に食事に呼ばれて向こうのご家族にも会うようになると、国境の垣根ってなくなるんですね。いろいろな話ができるようになるんです。当然、代理店にはホーユーへの不満もあります。もっとこうしてくれたら利益があがるのに、とか。それを僕は、相手の立場で聞くことができたんです。

    伊藤 本社の意向に反することもあったのではないですか。

    楠見 ありましたね。ですから、一番の交渉相手はいつも上司でした。中国駐在時代も、本社とは何度か戦いました(笑)。もちろん、僕はホーユーから給料をもらっていますから、ホーユーに損害を与えることはできません。でも、ときにはこちらが譲って代理店の意向を尊重すれば、代理店のモチベーションが上がって、将来的な利益につながることもあるはずなんです。上司にはそれを主張して、必死で食いつきましたね。

    伊藤 楠見さんをそこまで動かした原動力は、何だったのでしょうか。

    楠見 かっこいい言葉になってしまいますが、「守るべきものがあるから」ですね。代理店ビジネスをしていたときは代理店の家族や社員、中国で現地法人を立ち上げてからは社員とその家族が、僕にとっての守るべきものでした。社員は家族を抱えて、人生をかけて、ホーユー蘇州に入社してくれたわけでから、何としても守らならければいけない。中国でそう感じたときに、これが経営の視点なのかなと自分なりに思いましたね。

    伊藤 誰のために働くのか、何のために働くのかということが、働く原動力につながるのですね。

    楠見 ただ僕は、相手は見ます。代理店を選定するときは必ずトップに会って、信頼できる人物かどうかを見極めるんです。そうして厳選した代理店の社長とは、駆け引きなしのオープンなやり取りができ、国境を越えた友情が芽生えました。

    現地採用した社員に言っていたのは、「常に白でいてくれ」ということです。人間には白、黒、グレーの3タイプがあるというのが、僕が父親から教わった持論。黒は当然ダメですが、僕はグレーもいらない。「求めているのは白だけだ」と。ビジネスマンとして、「金銭管理面」と「人間関係面」において「白であれ」ということです。ですから、社員には「後ろめたいことが何もない状態にしておけ」と、常に言ってきました。黒い部分がある社員はきっぱりと解雇し、グレーな社員は一人ずつ面接して「ここがグレーだから、なくそう」と指摘して、本人たちもなくすように努力してくれて。こうして残ったメンバーが、僕にとっての大事な、守るべき存在になったということなんです。

    次世代リーダー養成に選抜され、「覚悟」が芽生える

    伊藤 中国からご帰国後、2009年には管理職に昇進され「ホーユー塾(※)」のメンバーにも選抜されました。これは楠見さんにとって、どのような場でしたか。

    ※ホーユー塾:OBT協会サポートのもとに行われた、社長直轄の次世代リーダー養成プログラム。

    楠見 ホーユー塾には各本部から一人ずつ参加していましたが、初日は僕も含めてメンバーはみんな、「なぜ自分なんだ」と疑心暗鬼な顔をしていましたね(笑)。まったく知らない人もいましたし。でも、ひとり一人の価値観は違っても、「ホーユーがこのままではいけない」という危機感はみんな持っていました。ホーユー塾が始まった当初はそうではなかったかもしれませんが、ホーユー塾を重ねるうちに、何とかしなければという気持ちが芽生えてきたんです。

    伊藤 どのような危機感を抱かれたのでしょうか。

    楠見 国内のヘアカラー市場は、成熟期に達しています。参入企業も増えていますから、今のままではまずい。今後、競合他社とどう戦っていくべきなのか、と。ホーユー塾に参加したことで自分自身の物の見方が変わったことも、危機感を持つようになったきっかけでした。

    伊藤 楠見さんご自身に、どんな変化があったのですか。

    楠見 視点を高めるということを、ホーユー塾で学んだんです。といっても、私にとっては抽象的なテーマですぐには理解できなかったのですが、やはりホーユー塾で紹介されたビジネス書で勉強しまして。そうしたら、「あっ」という気づきがたくさんありました。それまでも視点を高く持ってきたつもりでしたが、違っていたんです。どういう物の見方をすれば視点が高まるのかということに触れて、勉強することが楽しくなりましたね。

    ホーユー塾では最終回で経営陣への提言を行うことになっていまして、私たちはこれからの戦略と風土改革についてプレゼンテーションしました。今後は提言を実行に移していく段階で、そのときのメンバーとは今も議論を重ねています。

    伊藤 他社でも同様のお取り組みは聞きますが、提言して終わってしまう会社も少なくありません。ホーユー塾が終了しても、思いを紡いでいこうとされるのはなぜなのでしょうか。

    楠見 覚悟ですね。ホーユー塾を1年間続けて、誰かがやらなければいけないという覚悟が芽生えたんです。社長がホーユー塾を立ち上げたこと自体、社長の覚悟だと思いますし。

    伊藤 経営者の思いを感じることも、みなさんの意欲の源になっているのでしょうか。

    楠見 それはありますね。ホーユー塾は社長直轄のプロジェクトで、最優先事項になっていたんです。ですから、「ホーユー塾がありますから」と仕事を抜けても、各本部長を始め管理職は、誰も何も言いませんでした。そうでなければ、メンバーを集められないですよね。メンバーの人件費を考えても、これは社長の覚悟だと思いますよ。

    伊藤 トップの強いバックアップがあったことで、みなさんの意欲が高まったのですね。

    楠見 また、会社について議論をする中で感じましたが、社長の言葉には隙がなくて深いんです。考え抜かれたことしか言っていない。ホーユー塾も、社長が考えた末のこと。われわれに何かを託したのだと思うんです。

    でも、風土改革はやらされ感があっては上手くいきませんから、社内にどう展開していくかが難しい。課題はまだ山積みです。実は、先日もこれまでの社風が根強く残っていることを、僕自身が実感する出来事がありました。

    ある国の代理店からの注文に、生産が間に合わないという事態が起こったんです。担当者が関連部門を通じて生産本部に交渉したのですがうまくいかず、最終手段として、国際営業本部の上長から生産本部の上長へ社内箋(書面)で対応を依頼しました。

    その結果、納期通りに納品できることになり事なきを得ましたが、後日、生産本部にいるホーユー塾のメンバーから電話がかかってきたんです。実は彼は事態を察知して、僕を助けるために動いてくれていたんですね。「社内箋を出す前に、なぜひと言相談してくれなかったのか」と。

    電話一本で済むことを、書面でやり取りしていたのがこれまでのホーユーです。その風土を改革しようと議論してきたのに、僕が同じことをしてしまった。ホーユー塾で何を学んだのかと、深く反省しました。でも同時に、困ったときに頼れるホーユー塾の仲間が社内にいる。その手応えというか、心強さも感じた。今後、ホーユーの風土を本当に変えることができるのかどうかは、ある意味、ここからが勝負だと思いますね。

    伊藤 改めてお聞きしたいのですが、楠見さんがそこまで仕事に打ち込まれるのはなぜなのでしょう。楠見さんにとって仕事とは何ですか。

    楠見 僕は「自分を磨く道場」だと思っています。というと、格好つけすぎかもしれませんが(笑)。社会に出た頃は、金を稼ぐ手段という程度にしか思っていなかったんです。でも、今はやっぱり「道場」ですね。

    伊藤 守るべきもののために働くことや、自ら会社に働きかけて風土を変えていくことと、自分を磨くことは両軸なのですね。本日は、本当にありがとうございました。



インタビュー後記   -人はどのようにして育つのか-


<異文化の中での修羅場経験>

楠見さんの成長プロセスは、一言で言えば、海外での仕事経験ということに尽きるのではないでしょうか。

海外で仕事をする場合、これまで自分が身につけてきた常識、価値観等が全く通用しない状況にしばしば遭遇する。
時として、日本という国で培ってきた自分のアイデンティティが根本から揺さぶられるような場面に出くわすことでショックを受ける。人は、自分の考え方や価値観が通用しない状況に置かれた時、新しい常識、新しいスタイルを体験的に獲得し、自らを変化させていくことが出来る。
例えば、外国人をマネジメントする場合、日本人をマネジメントするやり方とは全く異なったものが必要になってくるし、生活慣習や文化が異なる顧客へのアプローチでも全く同様である。要は、日本的なスタイルでアプローチしてもうまくいかないということを思い知らされ、そこで気づきを得て成長していくのである。

また、日本で仕事をするのに比較すると外国で仕事をする場合、はるかに、多くの仕事、多様な状況に対応せざるを得なくなるため、役割も広がり、責任も重くなり、より高い観点で判断せざるを得ない状況に追い込まれるため、必然的に大局観や全体観が身についていく。

そして、言葉の壁である。
当然、言葉の壁は全てにおいて大きな障害となって立ちはだかるため、これに代わる人間性、責任感、意思そして高い専門性等で言葉の障害をカバーせざるをえなくなってくる。

常識が通用しない異文化、多種多様な仕事への対応と責任の重圧、人間性も含めた言葉以外の能力やスキルを駆使せざるを得ない場体験等で、否が応でも人を成長させていくことは間違いないところである。

昔から、人は修羅場を経験して、強くなり成長していくと言われてきたが、楠見さんと、社長直轄プロジェクト「次世代リーダー養成、ホーユー塾」において1年間にわたり講師という立場を超えて接してみて、ご本人の強い意思、揺るぎの無い座標軸、そして視野の広さ等若い頃から海外で上述のような様々な体験によって培われて現在に至っていることは間違いないであろう。

On the Business Training 協会  及川 昭
  • 経営施策を推進させるためには、経営課題を自らの問題と捉え、その解決に向けて周囲をリードしながら主体的に行動できるリーダー人財は必要不可欠である。では、そのような人財はどの様にして育つのか。楠見氏のインタビューから、「経験」「論理」「志」という三つの側面が浮かび上がる。入社4年目にインド市場を一人で担当、入社10年目には中国での現地法人立上げ、という立場を超える様な難易度の高い「経験」、社長直轄の次世代リーダー養成プログラム『ホーユー塾』を通じて獲得した「論理」、そして(会社を変えることを)「誰かがやらなければいけないという覚悟が芽生えた」という「志」。すべての経営施策は、実行されて成果に結びつかなければ「絵に描いた餅」でしかない。そのためには、「経験」「論理」「志」を持ち合わせたリーダー、即ち、経営施策を高い視点で捉え、現場で主体的に遂行していくリーダーの存在が極めて重要となる。
    (聞き手:OBT協会 伊藤みづほ)


    ホーユー株式会社 欧米営業部欧阿課 課長
    楠見育久さん(43歳)

    楠見さんは、ヘアカラーのトップメーカー、ホーユーで入社以来、海外営業ひと筋に歩んでこられました。入社4年目にして広大なインド市場を一人で担当。入社10年目には中国での現地法人の立ち上げをゼロから任され、中国市場開拓の中核を担ってこられました。どのようなご経験によって今の楠見さんが形作られたのか。楠見さんの強靭な意思と行動力の源は何か。じっくりと語っていただきました。

  • くすみ・いくひさ

    1966年生まれ。大学卒業後、ホーユーに入社。国際営業部でインド、ネパール、バングラディシュ、パキスタン、スリランカなどを約8年間担当した後、中国法人の立ち上げを手がけ現地に約7年間駐在。2009年に欧阿課の課長に就任し、ヨーロッパ、南アジア、中東・アフリカ市場での営業の指揮を執る。

    ホーユー株式会社 http://www.hoyu.co.jp/

    ヘアカラー国内市場のシェアトップを誇る、創業100年を超える老舗企業。海外市場においても9カ国に営業拠点・現地法人を置き、70カ国に代理店網を構築。さらなる海外展開の強化を目指している。創業/1905年、資本金/9,800万円、従業員数/875名(2010年2月1日現在)、売上高/394億円(2009年10月期)

  • 最初の上司に、「現場主義」を叩きこまれる

    伊藤 楠見さんはご入社以来、海外営業ひと筋に歩んでこられました。国際的な仕事をするというのは、ご自身の希望でもあったのですか。

    楠見 僕は、小学生のときの作文にも「世界を股にかけたビジネスマンになる」と書いていまして、海外で働くことは子どもの頃からの夢でした。なぜかはわかりませんが、前世は外国人だったのではないかと思うくらいに異国にひかれるんです。

    就職活動ではメーカーや商社を受けましたが、メーカーでは国内の部署からのスタートだといわれ、商社は事業が幅広すぎてどんな商品を扱うのかがわからない。ホーユーは国際営業部で採用してくれるというし、商品も「ヘアカラー」でわかりやすい。それで入社したんです。安易といえば安易ですね(笑)。

    伊藤 夢が叶った毎日はどのようなものでしたか。

    楠見 配属されたのは、インドやパキスタンなどの南アジアと中東、アフリカを担当する課でした。一国一代理店制で、現地の企業と代理店契約を結んでいたのですが、代理店の営業に同行して小売店を一軒、一軒訪ねて歩くという、泥臭い営業を当時はしていましたね。

    1回出張すると1カ月くらい滞在して、毎日30軒ほど訪問するんです。棚や在庫を見せてもらって月間の販売数を聞き、そこから逆算して在庫が少なければ「もう少し仕入れてください」と売り込む。現地では、欧米企業はもちろん、日本の企業でも当社のような活動をしている会社はありませんでしたね。

    伊藤 御社の国際営業では、みなさんそういった営業活動をされていたのですか。

    楠見 基本的にはそうですね。中には少しだけ回って2週間程度で帰ってくるようなケースもあったようですが、僕の課の課長は徹底して「足で稼ぐ」タイプ。僕はこの課長についてインドを担当し、現場を知ることの大切さを叩き込まれました。

    特にインドは、北と南、西と東などエリアによって人種も文化も違う広大な国です。どうすれば全土をカバーできるのかと悩んでいたら、課長は「とにかく行くしかないだろう」と。そして毎日歩き回って、疲れてくると「次のコーナーまで回ろう」というんです。マラソン選手が「次の電信柱まで」と自分を励ますような感じで営業をしていました(笑)。

    伊藤 ご上司の方針には迷いがなく、指示も具体的ですね。

    楠見 「お前はこれをやれ」と、指示はいつも明確でした。新入社員の頃は、「~だと思うよ」というような曖昧なアドバイスをされても、どうすればいいかわかりませんよね。「やれ」といわれて、僕も迷わずできたように思います。

    伊藤 「現場主義」からは、どのようなことを学ばれたのでしょう。

    楠見 文化や考え方の違いなどいろいろありますが、現地の売れ筋が肌でわかったことは大きかったですね。当時のインドでは「粉末ビゲン」が人気でしたが、クリームタイプが主流の日本からすると粉末は一昔前の商品。でもインドでは長らく液体タイプが主流で、粉末は逆に新鮮だったんです。液体と違って、アンモニアや過酸化水素を使わないことも、「髪に優しい」とウケていた。商品は売り方一つで生き死にが決まり、何が受け入れられるかは現地に行かなければわからない。それを学んだ経験でした。

    伊藤 社会人としてのスタート地点で、仕事に対する考え方や行動の基本を、ご上司から学ばれたのですね。

    楠見 そうですね、現場主義は今でも僕の基本です。でも、入社4年目に課長が異動になりまして、その後、課長のやり方を少し変えて、自分なりの営業システムを作り上げていったんです。

    伊藤 どのようなシステムを作られたのですか。

    楠見 当時は、年に3、4回出張していましたが、小売店の訪問記録がほとんど残っていなかったんです。そこで訪問した店をリストにして、各店の取り扱い品目や在庫状況、発注数などを記録するようにしました。現場主義に論理的な方法も導入したということです。

    これによって販売状況が数値で把握でき、POSデータがないインドでもシェアがある程度つかめるようになります。まず大都市でこのやり方を実践し、次に2級都市でも同じようにして小売店を訪問し、3級都市くらいまではカバーしたでしょうか。そうして、インド全体での当社のシェアはこれくらい、競合他社はこれくらいというのを叩き出したんです。

    伊藤 入社して最初の3年間で上司に仕事の基本を教わり、その後に、自分で創意工夫できる環境を与えられたことで、仕事の幅が大きく広がった。そんな転機だったといえるでしょうか。

    楠見 実は、課長の異動を知ったときは目標を失ったような気がして、退職を考えたほど意気消沈したんですよ。担当国もインド以外にネパール、バングラディシュ、パキスタン、スリランカの5カ国に増えましたので、一人でできるのかという不安もありましたし。でも当の課長に「お前はまだ何もやり遂げていないだろう」と指摘されて、おっしゃる通り、自分なりの目標を新たに設定して頑張らなければいけないなと。いつまでも課長に頼っていてはダメだと......。このような一連の経験のお陰で、早くから自律し、自分で考えて判断する力を養うことができたように思います。

  • 中国事業をゼロから立ち上げ。
    現地での「他流試合」を通じてビジネススタイルを構築する

    伊藤 その後、入社9年目にインドの担当から離れ、翌年には中国事業の立ち上げメンバーに指名されました。まったく文化の違う国をゼロから開拓するという、大変なポジションですが、どのようなお気持ちで辞令を受け取られたのですか。

    楠見 これがまた、退職を考えた出来事でした(笑)。そもそも僕は中国語が話せませんし、当時は2歳と4歳になる子供もいたのに、無期限で中国に駐在するようにいわれまして。「人の人生を何だと思ってるんだ」と。でも、下見を兼ねて北京や上海を訪ねたら、想像していた以上に発展していまして、子供の日本人学校もある。これならいけるかなと(笑)。そこでまずは単身で赴任し、半年後に家族を呼び寄せました。

    中国チームのメンバーは、商社からスカウトした日本人の社長(総経理)と営業兼通訳の中国人スタッフ、そして僕の3人です。現地法人を設立して工場を立ち上げ、中国に代理店網を構築することが僕らの仕事でした。ただ始めてみると、よくいわれるように、許認可が予定通りに下りないんですね。ですから手続きを少しでも早めてもらうために、日本ではたぶんありえないような苦労を経験しました。当時は、毎日倒れてましたね(笑)。

    でも、日本では知り合えないような人たちとの出会いもあって。中国には7年間駐在しましたが、この経験で自分のビジネス観が変わり、自分をひと回り成長させることができました。

    伊藤 どのような出会いがあったのですか。

    楠見 僕らが現地法人を設立した蘇州に、同じく進出していた日系企業の先輩駐在の中で、仲良くなった方が7、8人の方いたんです。みなさん業界も会社も別々で、ビジネスの関係はない人ばかり。多くが中小企業から来ていて、現地の日本人の間では「軍団」と呼ばれていたんです。一方で、大企業の社員の方々が集まるグループもあって、そこのメンバーから僕らは「アニキ」と呼ばれていて(笑)。

    伊藤 会社の規模からすると、逆転した関係ですね。

    楠見 複数でやってくる大企業の人たちと違って、僕らは一人または少人数ですべてを託されていましたから、背負っているものが違うんですね。僕も含めて軍団の多くは"無期限"で来ていましたから、駐在期間も違う。中国人スタッフ50人を抱える工場を一人で切り盛りしている人もいて、視点も考えていることも、ぜんぜん違うんです。みんな自律して自分で考えて、自分で判断して、自分で行動、なんですよ。中国でビジネスをする上で何が問題になるのか、どう対処すべきなのか。軍団の仲間からは、たくさんのことを教わり、助けてもらいました。

    伊藤 辛い状況も、仲間がいると乗り越えることができますね。

    楠見 そうですね。しかも、ほとんどが本社でのポジションよりも上の立場で来ていますから、みんな背伸びをしているんです。重い荷物を背負っているのは自分だけじゃない。そう感じて、モチベーションは上がりましたね。本社にいたら異業種の人とつき合うことは少ないですから、これが駐在の醍醐味だなと思いましたね。

    伊藤 そういった中で、楠見さんのビジネス観はどのように変わられたのでしょうか。

    楠見 それまでの僕は、「これ」と決めたら何としても成し遂げようと試行錯誤して苦労していたんです。でも、中国でのビジネスが長い人たちは、物事が計画通りにいかないということがわかっていますから、常に代案をいくつも持って事に当たるんですね。「これがだめならこうしよう」、「それもだめなら次はこうしよう」と。しかも、切り替えがものすごく速い。ですから、僕も当初は「一省一代理店」という計画を立てていましたが、それにこだわらなくなりました。これが、僕にとっての一番大きな変化です。

    同時に、インドで学んだことが中国ですごく役立ちました。まず、市場を一つのものとして捉えてはいけないという考えをインドで身につけていたお陰で、いろいろな価値観を持つことができた。机上論は通用しない、答えはすべて現場にあるというのもインドで学んだことです。

    営業的な話でいえば、インドでは、広大な国での配荷率をいかに高めるかという手法も身につけました。基本は一国一代理店制ですが、一つの代理店が広大な国の全土に配荷するのは、物理的に不可能なんですよ。ですから、インドでは代理店の下に置いた約200社のディストリビューターを通じて小売店に配荷しています。インドで学んだこのディストリビューター制での配荷のネットワークを、中国にも応用したんです。

    伊藤 駐在されていた7年間で、中国事業はどのくらいの規模になられたのですか。

    楠見 代理店数でいえば23社とのネットワークを構築し、いわゆる沿海部と四川省や武漢といった内陸の主な地域はカバーできるようになり、現地法人の社員数は約50人。そのうち営業部隊が約20人という規模になっていました。

インタビュー後記


未知の領域にトライする


今回、お話を伺った楠見さんは小さな頃から海外でお仕事をしたいと強く願っていたそうです。

しかし、現在の新卒者は30%もの人財が海外赴任を嫌がっているとのデータもあります。
国内のマーケットは急速に縮小し、企業の海外展開が加速しています。そのため、企業では今、グローバル人財の採用・育成が求められています。

しかし、初めから海外での仕事がうまくいくとは限りません。楠見さんはインドや中国といった新興国を中心に経験を積んでこられました。『海外に憧れている』と言っても、実際には言葉の壁や文化の壁、そして仕事のやり方の違いなど、様々な苦労があったそうです。

そんな中、楠見さんを大きく成長させたのは『仕事の体験』だったと思います。
楠見さんご自身も「複数でやってくる大企業の人たちと違って、僕らは一人、または少人数で全てを託されていたから、背負っているものが違う。」と語って下さいました。
大企業では、多くの仕事を分担して行い、決まった仕事をこなすだけになってしまう事がしばしばあります。しかし、それほど規模の大きくない企業では、一人、また少人数で、全体で起こる出来事に対処して行かなくてはいけません。
この経験が何よりも、人を成長させると考えます。

人は、任された仕事、また自分の出来る範囲内での仕事の中では成長できません。
今まで体験してこなかった出来事を経験するからこそ、それを超える努力をするのです。

自分を大きく成長させる機会、それには、今までと違った環境で様々な経験をすることだと思います。それには、待っていても何も状況は変わりません。

これからの、自律型人財に必要なことは、積極的に一歩前に踏み出し、自身で今までの環境を変えていくことが出来る人財なのではないでしょうか。


On the Business Training 協会 伊藤みづほ 菅原加良子


*続きは後編でどうぞ。
  「経験」「論理」「志」――経営課題を解決していくリーダーに必要な側面 (後編)

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