2011年11月アーカイブ

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    日本最高齢声楽家
    相愛大学名誉教授
    嘉納 愛子さん(104歳)

     

    "全国の100歳以上の高齢者が2011年9月15日時点で4万7,756人となり、41年連続で過去最多を更新する見通しとなっています。その中で全体の87.1%を占めているのが女性。今回お話をお伺いさせていただいた嘉納さんは104歳で声楽家。とてもお元気で、またユーモア溢れる女性です。取材当日は喉を痛めていた為に、歌声を聴かせて頂くことは出来ませんでしたが、ピアノを弾いてもらうと一変。ピアノに向かう姿からは、音楽に対する思い・考えがひしひしと伝わり、年齢を全く感じさせませんでした。

【プロフィール】

嘉納 愛子(AIKO KANOU)

1907年大阪生まれ。声楽家・音楽指導者。東京音楽学校(現在の東京藝術大学<声楽本科>)を卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となる。結婚後、音楽活動を休止するが、相愛女子専門学校(現相愛大学)からの依頼があり、音楽家の講師(のちに教授)として音楽教育に携わる。また、自宅での少人数レッスンを続けている。

人生は公平

いつから音楽が好きだったんですか?と嘉納さんに質問したとこと、「物心ついた時からね。だから、歌を好きに産んでくれた両親に感謝だと思っています」と答えてくださいました。嘉納さんは「本当に幸せな人生です。だから、もし、20歳に戻れたら何しますか。っていわれても、ずっと幸せだったから、戻りたくないの」と語ります。

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嘉納さんは、27歳の時に山田耕筰氏の支援者だった、灘の酒造家(菊正宗)の四男の嘉納鉄夫さんと結婚。しかし、御影にある嘉納家といえば指折りの旧家、"歌を歌ってお金を稼ぐことなんて、はしたないことだ"といわれ、蔵にピアノを入れられてしまったそうです。そこから、音楽とはまったく離れた生活に入ります。しかし、翌年には男子を出産。また、旧家だったため、人の出入りが多く、毎日がお正月のようだったといいます。朝起きたら髪結いさんが一番最初に来て髪を結ってくれる。そして、次は商売人が来る。お菓子屋さんや魚屋さん、それから呉服屋さんも来て、着物を選ぶ。その為、戦争中も何一つも物に不自由しなかったそうです。「そんな生活だから歌いたいと思ってなかったの」と嘉納さん。また、1945年6月10日の空襲では家が全て焼けてしまいます。「その時も不思議と悲しいと思わなかったわ。まわりもみんな焼けていたから」。その後、大阪近くの田舎に疎開し、終戦の翌年に御影に戻ってくることになります。しかし、その数日後、小学生になった息子さんが朝に高熱を出し、夕方に亡くなってしまったそうです。「心は虚ろになり、何も考えられない状態でした。それで2~3年は何もしないで、ボケ~としてました。そしてね、ある夜、真っ暗で何にもない、御影の綺麗な砂浜で歩いていたの。誰もいないと思って、思いっきり淡路まで聞こえるような声で、歌うんじゃなくて、叫んだの。そしたら、樽屋のおじさんが、見てたみたいで、『なんや、夜叫んでたで』って評判になって。それを主人が聞いて、『あ~歌いたいんだなぁ』って、それで大阪に家建ててくれて、『教育ならばよろし』っていって。また、歌を歌えることになったの。その後、すぐ相愛女子専門学校(現相愛大学)の学長から『声楽を教えてくれませんか』と声をかけていただいたんです。本当に嬉しかったわ」と、嘉納さん。

その後、約60年以上もの間、声楽家として活躍されている嘉納さん。「私の人生は恵みの人生。感謝ばかりです。人から頼りにされるってことは本当に幸せなことよ。だから、私は本当に幸せ。何の苦労もしていません。ただ、子どもを亡くしたことは本当に大きなマイナスなの。そう考えると、『人生は公平ね』このことははっきりいえます」。

辛い過去を語ってくださった嘉納さんですが、悲しみを決して表には出しません。 「いつかのテレビで、色紙に座右の銘を書いて下さいと言われたとき、私は"感謝"って書きました。それ以外には言葉はありません。ただ、やっぱり、こう思うようになったのは60~70歳くらいかしら。だから、みんな100まで生きないとダメね(笑)」。嘉納さんからは、どんな出来事があろうと、きちんと全てを受け入れ、前に進んで行く強い力を感じます。また、"幸せな人生だった。感謝"の裏には、人には見せない努力の姿、悲しみを超え、精一杯生きた。という自らの思いがあるからなのではないかと感じます。


欲張りじゃないとダメ

嘉納さんは「私は、明日さよならしてもいいです。悔いはありません。それだけ幸せな人生でしたから」と語ります。しかし、その一方でご自身のことを「私は、"見たい・聞きたい・寝たい・食べたい・歌いたい"のたいたいばあさんなの」といいます。「欲張りですからね。最近、開き直ってます。おんなじ生きるんならギネスに載ってやろうと。114歳まで。でも、しわくちゃは嫌なの。だから、しわが寄らないようにしてるのよ。化粧品使って。最期まで、しわくちゃにはなりたくないもの」と。嘉納さんは104歳という年齢が嘘のように、肌がきめ細かく、非常にお洒落でした。お話を伺うと、毎日自ら服を選び、ワンピースを切って、マフラーにするなど、自分で裁縫をすることもあるそうです。また、嘉納さんは104歳になった今でもネイルケアを自ら行うそうです。

「私は、やりたいことが、いっぱいあるのよ。いつまでも綺麗でいたいし、オシャレでいたい。これもしたい。あれもしたいって。だから、毎日忙しいの。でも、欲張りって大事なことだと思うわよ。欲がなくなったらダメね」と嘉納さん。

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嘉納さんとお話をしていて、感じることは、とてもユーモアがあること。 最近書いたという俳句を見せていただくと『老人太り、三途の川は乗船拒否』また、九十九歳の時に作った俳句では『振り返り、苦労ないんないん。白寿道』。「無い無いと99(ナインナイン)をかけてみたの(笑)。でも、本当に辛かったことも今では、みんないい思い出でね。」とって語ってくださいました。

今まで、音楽をやってきて、辛かった経験はあるんですか?と質問したところ「ありますあります。思うように声がでなくて、しょぼくれていました。でも、負けん気で、カバーね」と。自身の歌の点数をお伺いすると。「点なんて付けられないわ。もっともっと上手に歌えると思うの。欲張りだから。限度はありません。これはお医者さんから聞いたんだけど、声帯は老化しないんですって。だから、もっとうまく歌えるはず」。嘉納さんはこうなりたいという思いが強く、年齢で妥協することはなく、プロセスを楽しめる人。そんな印象を受けました。嘉納さんは、自分の歌に納得したことは一度もないと語ります。もっと、上手くなりたいという強い気持ちが、今でも変わることなくあります。

現在の若い人たちの中には"簡単に物事を諦めたり、目標がない"という人が多くいます。嘉納さんに質問をすると「日本人は、もっとしっかりしないと。いつから、こんな風になってしまったのかしら。若い人が強くならなくちゃダメね。」と喝を入れられました。「今の子たちは、ずっといろんな物を与えられてきたから。自ら求めないからじゃないかしら。やっぱり欲張りじゃないと。ぼんやり口を開いていても楽しい事なんて、向こうからやってくるものではありません。だから、自ら少しでも興味を持ったら、一途にやってみることね。本気でやっていれば、いつか誰かが"いいところ"を引き出してくれると思うの。人生は公平だから。だから、日本を沈没させないためにも頑張りなさい。そして、100まで生きなさい(笑)。」と。

もうすぐ105歳になられるという嘉納さんは、お話を語って下さっている時も常に楽しそうでした。
嘉納さんからみた長寿の秘訣は、オシャレであること。欲張りであること。ユーモアを忘れないこと。そして、自分の一番好きなことをやり続けられること。なのではないかと感じました。

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インタビュー後記


自らの人生を振り返り"幸せな人生だった"と笑顔で語る嘉納さん。
幸せの感じ方は人それぞれだと思いますが、嘉納さんのように、今まで生きてきた道に悔いはない、といえる人はどれほどいるのでしょうか。

幸せだった嘉納さんの人生にも、言葉にはださない辛い経験やさまざまな苦しい思いもあったかと思います。

しかし、嘉納さんからは、それを懸命に乗り越えた、また乗り越えたいという、強い思いのようなものも感じました。
まさしく、〝幸せは、人から与えられるものではなく、自ら掴み取るもの〟であり、心の置き方一つで、幸不幸は変わってくるのだと思います。

嘉納さんの語る"たいたい"の気持ちが幸せを掴む重要な考え方なのだと改めて感じました。


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    日本最高齢声楽家
    相愛大学名誉教授
    嘉納 愛子さん(104歳)

     

    "全国の100歳以上の高齢者が2011年9月15日時点で4万7,756人となり、41年連続で過去最多を更新する見通しとなっています。その中で全体の87.1%を占めているのが女性。今回お話をお伺いさせていただいた嘉納さんは104歳で声楽家。とてもお元気で、またユーモア溢れる女性です。取材当日は喉を痛めていた為に、歌声を聴かせて頂くことは出来ませんでしたが、ピアノを弾いてもらうと一変。ピアノに向かう姿からは、音楽に対する思い・考えがひしひしと伝わり、年齢を全く感じさせませんでした。

    【プロフィール】

    嘉納 愛子(AIKO KANOU)

    1907年大阪生まれ。声楽家・音楽指導者。東京音楽学校(現在の東京藝術大学<声楽本科>)を卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となる。結婚後、音楽活動を休止するが、相愛女子専門学校(現相愛大学)からの依頼があり、音楽家の講師(のちに教授)として音楽教育に携わる。また、自宅での少人数レッスンを続けている。

    何か一途になるといい

    嘉納さんの若いころは、女性の習い事と言えばお琴。また、演劇といえば仕舞・謡曲(*)の時代。しかし、嘉納さんは「西洋音楽がやりたい!」と一途に意思を貫き、大学行きを反対していた両親を「音楽学校を受けさせてくれなかったら死にます。」と脅し、当時、難関だった東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験。見事合格をしたそうです。親元を離れての寮生活では、「私は朝寝坊でしたから、寮長さんがお味噌汁の実がなくなるから早くいきなさい、お布団畳んであげるから、って毎日いわれてました」と。でも、その一方では、音楽学校での嘉納さんはレッスンが終わっても、また別のレッスン。と音楽に対して猛勉強の日々。「あれもできる、これもできる。ではなく、何か一つに一生懸命になった方がいいわね。私は、小さい頃から歌が好きだったの」と嘉納さん。

    歌が好きで、上手になりたくて必死だった。だけど、将来、有名になりたいとか、歌で食べてい行きたいとは全く思っていなかったそうです。「歌が上手に歌えるようになって行くのが楽しかったのよね」と。

    (*) 仕舞=能の一部を素で舞うこと。能における略式上演形態の一種。
       謡曲=能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。

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    現在、嘉納さんのもとには、"子どもに音楽を学ばせたい"とやってくる親御さんがたくさんいるそうです。そんな方々に嘉納さんは必ず『将来は専門家にしたいの?』と聞くそうです。嘉納さんは語ります。「頭角を出すには、元々いいものを持ってるか、高度な頭を持っているかね。まずは、ある程度は素質を持っていなかったら伸びません。私は、どんな子でもすぐには断りません。半年は教えますよ。そうすると、ぐんぐん伸びる子もいます。初めからエクスプレッションを持っている子、そういう子は伸びます。それは感じるの。それから、癖がない子、今は何もないけど、餌上げたら、立派に育つ子、そういう子はやっぱりわかりますね。そういう子は伸ばします。それじゃなく、半年で何も伸びない子もいます。そういう子には『あなたフルートいったらどう?』って。声楽もフルートも腹式呼吸だから一緒なの。お金をたくさん出したら金管楽器はいい音しますよ。私は、はっきりいってあげるの。それが、その人のためだから。あとは、才能のある子は、卒業したら外国に行った方がいいわね。プロになるっていうのは生易しいものではないです」と嘉納さん。

  • 山田耕筰先生との出会い

    嘉納さんの学生時代はというと、覚えることがたくさんあり、それを一つずつマスターし、前回よりも歌がうまくなったと自ら感じられることが幸せだったそうです。しかし、音楽学校で教えてもらえるのは基礎の基礎。"もっと上手になりたい"と、昭和3年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業してからは学校では習えなかった勉強をしようと山田耕筰氏に弟子入りをします。当時の山田耕筰氏は三菱財閥の総帥岩崎小弥太氏の援助を受けてベルリン音楽学校の作曲科へ留学。帰国後、近衞秀麿氏らとNHK交響楽団の前身、日本交響楽協会を設立するなど活躍していました。嘉納さんは、その後、山田耕筰氏が確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれることとなります。

    山田耕筰氏からはたくさんのことを教わったと語って下さいましたが、一番勉強になったことは『歌を歌う時には話をしなさい。そして、歌詞をよく理解しなさい』っということだといいます。詩には、その短い文章の中に作詞家の思いがたくさん詰められているといいます。曲を作る作曲家はその詩を何回も何回も読み直し、イメージを膨らませて音として表現していくそうです。その為、伴奏は詩の心の動き、外の風景の音、空気の動きを表現してといわれています。

    「歌は、哲学です。20代の時に読んだ詩と、今読んだ時では、詩の感じ方が違うはず。だから、表現の仕方(歌い方)が変わってくるの。だから、歌は面白いんです。私もそれはのちに感じたの。だから、歌詞の理解は重要。若い頃は声の出し方が難しいって思っていたけど違うの。本当に難しいのは、声一つで聞き手の人に絵を描かせることができるかどうか。歌は"叙事"の部分と"抒情"の部分それが混ざって出てきます。声楽を研究した人じゃないとわからない。そこが難しいの。からたちの花(*1)も山田耕筰先生の曲は2000,3000あるけど、からたちが一番"叙事"と"抒情"(*2)のバランスが難しいっていいます。声が出ないとき、叙事がでても抒情がでません。だから、私は挑戦してるわけなのよ」。嘉納さんからは、山田耕筰氏を敬い・慕う気持ちが伝わってきます。

    (*1): からたちの花=北原白秋作詞、山田耕筰作曲の日本の歌曲。
    (*2): 叙事=事実をありのままに述べ表すこと。
        抒情=自分の感情を述べ表すこと。

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    現在は、相愛大学の名誉教授となっておられる嘉納さんですが、生徒に音楽を教えるときのコツを伺うと「さっきもいったけど、歌詞を理解しなさいっということと、声の訓練ね。学生さんは声を出すのが大変で、その声は腹筋を使えないと出ないの。だから、声を出す訓練をしてあげます。それには私が伴奏を弾いてあげること。初めにピアノの鍵盤の白い部分だけで引いて、次に黒い鍵盤だけを弾いて、また、白い鍵盤だけで次は一オクターブ高い音の出る白い鍵盤部分で弾いてあげるの。それを伴奏で弾いてね。どんどん声をださせてあげるのよ。自然と出せるようになるように。だから、歌の先生はピアノが弾けなくちゃだめ。今は、弾けない人もいるのよね。でも、バイオリンでも作曲でもピアノが土台ですから、これを勉強しないと。最近は、よく理解しないで、歌を歌ったり、作曲する人がいる多いの。悲しいことだわ。」

    嘉納さんのお話を伺っていて感じることは、全てにおいて基本が大事ということです。 また、素質と感性の豊かさ、そして、一途になって自ら学ぶ意欲。声楽家は"いい声だな~"だけではなれないと嘉納さんは語ります。「頭を使って、いろいろ覚えたり、考えたりと、広くそして深く勉強しないといけません」と。また、バイオリンやピアノは勉強した人がいい楽器、バイオリンでいうなればストラディバリウスを使えば、素晴らしい音が出ます。でも、「声は物じゃ出ないから、本当難しいのよね。」と嘉納さん。後編は嘉納さんの人生観についてお話をお伺いしました。

取材を終えて・・・


60年以上声楽家として、活動を続けられてきた嘉納さん。
なぜ、こんなにも長いあいだ、飽きることなく一つの事に打ち込むことが出来たのでしょうか。
嘉納さんは語ります"もっと上手くなりたいから"と。

始めたころは、いろいろ覚えることや発見が次々と出てきます。
しかし、何度も繰り返すうちに「刺激への慣れ」がおこり、感動が薄れて行くといわれています。

嘉納さんの場合は、今現在も感動や日々の発見を楽しんでいるように感じました。
それは、音楽は勿論のこと、それ以外にもファッショントレンドに至るまで
様々な情報を捉えています。つまり、常に物を感じる感性のアンテナを立てているのです。

新たな情報が入ってこなければ、新たな考えも、感情も生まれません。
『いつまでも感性を尖らせておくこと』
そのことが、自らを成長しさせ、また飽きずに向き合うことができる
条件の一つなのかもしれません。


*続きは後編でどうぞ。
  第三回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】私は"たいたいばあさん"なんです

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