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浄土真宗本願寺僧侶、布教師
松本 紹圭さん
"人の育成に最も重要なことは?"第4回目にご登場いただくのは、浄土真宗本願寺僧侶の松本紹圭さんです。一般家庭に生まれながらも、幼少期に祖父のお寺で仏教に触れたことにより、大学卒業後、仏門へ入られた松本さん。2011年にはお寺の運営をもっと良いものにしていくためにマネジメントの勉強をすべく、インドでMBAを取得。今回は、松本さんに"仏教の教えからひも解く人財育成"について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
松本 紹圭(SHOUKEI MATSUMOTO)
1979年北海道生まれ。東京大学文学部哲学学科卒業。東京神谷町の光明寺所属。仏教の魅力を老若男女に発信すべく、インターネット寺院「彼岸寺」を設立。また、お寺を会場とした音楽イベント「誰そ彼(たそがれ)」や寺院内カフェ「ツナガルオテラ神谷町オープンテラス」を運営。2012年からは、お寺の運営と住職の在り方を学ぶ「未来の住職塾」を開講
インターネット寺院「彼岸寺」(http://www.higan.net)
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仏教からみる人との関わり方
────後編では、仏教と経営という観点からお話をお伺いしたいと思います。まず、仏教から見た人財の育成についてのお考えをお教えいただけませんでしょうか。
仏教の経典のひとつに『六法礼経』というものがあります。主人と使用人の幸せな関係を築くための方法が書かれていのですが、現代の私たちならば、上司と部下の関係に当てはまると思います。
【上司が部下に対してすべきこと】
①能力に応じた仕事を与える
②仕事に見合った給料を与える
③病気の時は看病をする
④美味しい食べ物を分け与える
⑤時期を見て休みを与える【部下が上司に対してすべきこと】
①上司より早く出勤する
②上司より後に仕事を終える
③与えられた給料だけを受け取る
④仕事に熟練し、責任を持つ
⑤会社や上司の名誉を傷つけないこれらは2千年の時を経ても変わらないことだと思います。
────考え方の本質というのは何年たっても変わらないのですね。
そうですね。ただ、現代の企業における人財育成に関しては少し違ってきていると思います。今までの様に一方的に企業の論理を教えて育った人財はこれからの会社で必要なのかという問題があります。
"自社の考え方を身につけさせる"というのは、型を身に付けるというと少し聞こえもいいですが、実際には型にはめて行く作業だと思うんですね。でも、これだけ変化の速い社会では、そこから本当の変革が始まるとは決して思えません。では、そういう時代に人財に対して何ができるかというと、やはり一人ひとりの可能性を伸ばすことだと思うんです。
ある人のポテンシャルを最大限引き出すためには、やはり何かを入れるというよりは、まず空っぽにするところから始まると思います。加えるより、捨てる作業の方が重要だと思うんです。(前編参照)それは短期的に見ると、企業にとってはリスキーな部分もあります。捨てる作業は本質に向き合う作業でもありますから。下手をすると、「自分にとってこの会社は大切なものじゃない」ということに気がついて、(考えに至って)会社そのものを捨てる対象として捉えてしまうこともありえます。
でも、それぐらい本気で、その人の人生の可能性を伸ばしてあげようという懐の大きさが、これからの人財育成なのではないでしょうか。人財の育成を会社の論理で進めようとしても、想像を超える人財は育ってきません。やはり、懐深く、その人の人生という視点で育ててあげなくてはいけないんじゃないかと。
最近では、人を引き付けるためになにか条件で処遇しようとしても、できる人は集まりませんね。私も含め、若い人たちはやりがいを求めていると思います。
────"やりがい"となると、やりがいは与えるものなのか、自ら得るものなのではないかと言う議論がありますよね。
確かにそうですよね。企業側ができることとしては、社員の人生の重要な部分を構成する仕事において、その人が生きがいを追及できるようなカルチャーになっているかどうかは大きな違いを生むと思います。
それから、働く側の考え方なのですが、仏教では『サンガ(※)』というものをとても大事にしているんですね。仏・法・僧と言って"仏"はお釈迦様で"法"というのは教えそのもの、そして、"僧"は仲間、それらをまとめて三宝といいます。仏教における三つの宝のうちのひとつが、「仲間」なんです。よい仲間を得ることは悟りへの近道ではなくて、もし本当によい仲間を見つけれらたら、悟りを得たもの同然だと言われるくらいです。
(※)サンガ:僧伽(そうぎゃ)は仏教の用語で修行者の集まりや、教団のことを指す。
────それは、共に頑張れる仲間を見つけるということで、切磋琢磨することによって自身のモチベーションもあげていけるということですね。
はい。志が高い人達が集まり、自らで考えることをし始める。それが社員が所属する企業が、他人事ではなく、その人自身のもの、人生そのものになった状態だと思うんです。だからこそ、先程も申し上げた通り、それをみんなでやっていけるような風土になっているか、カルチャーになっているか、体制になっているかっていうことが企業にとって重要だと考えます。
社会のブレークスルーを仏教の視点から後押しする
────結局は、人の育成も縁起(前編参照)と言う考え方に通ずるということですね。松本さんが立ち上げた『未来の住職塾』でございますが、始めようと思われたきっかけはなんだったのでしょうか。
これまで「お寺カフェ」や「インターネット寺院」などさまざまな試みを行ってきましたが、一度立ち止まって、これからのお寺の在り方というのを私自身整理して考えたいと思いました。今までやってきた活動が点としては成り立っていたんですけれども、それら全体がどう統合されていくのか、お寺の未来を本気で描きたかったのです。そして、それをちゃんと社会と接続していきたいと思いました。
(※)左:寺院内カフェ「ツナガルオテラ神谷町オープンテラス」 右:お寺を会場とした音楽イベント「誰そ彼(たそがれ)」
私は、お寺は気づきの場だと思うんですよね。その気づきの機会をどう提供していくのか。今、企業や学校でも教育プログラムというものがありますけれども、それが本当の意味で効果を発揮していくためは、人生レベルの思想を理解することが絶対に必要になってきます。そして、その思想から、教育プログラムを学ぶと今以上に気づくことがたくさんあると思います。その思想を学ぶ場として今後お寺が果たしうる役割は、すごく大きいと思うんですね。残念ながら今は、果たしきれていないのですが。
お寺とは、人の根本的な価値観を育てる場所であって欲しいという気持ちがあります。そのような心を支える社会インフラがあったうえで、教育プログラムがあれば、もっともっと歯車がかみ合っていくのではないかと思うんです。その根っこの部分が、今の日本社会にはずいぶん抜け落ちているように感じます。
────現在、お寺で座禅を組む人、説法を聞きに来る若者が増えてきているそうですが。
そうですね。今、そういう思想を学べる場が求められているのだと思います。だから、まずは教える側のお坊さんが、自ら人財としての質を高めて、自分にとって損か得かというところでの生き方ではなく、もっと大きい視点に立つことが必要なのだと思います。
────最後に今後の目標をお伺いできますでしょうか。
今後、「未来の住職塾」が発展したら、お寺がいろいろな人(一般の方)への気づきを促していく役割を果たせるよう、さまざまなプログラムを皆とともに作っていきたいと思います。
お寺は今まではお葬式や法事をする場所だけだと思われてきました。確かに、お葬式は大事です。なぜなら、お葬式を通じて人は「死」を意識し、自分自身の人生で本当に大切なものを考える機縁となるからです。しかし、現在のお葬式がそのような機縁として機能しているかどういか。
他人の「死」に触れることは、気づきを得るためのとても重要な体験です。自分の死は体験出来ないですけれども、人の死に触れることから、自分の死を意識することはできます。それによって、ふだんは損か得かという物差しで生きていたとしても、最後には全部手放さなくちゃいけないということに気づくんです。
「葬式仏教」などと揶揄されますが、私は葬式という重要な「気づき」の現場にお坊さんが関われるということは、とても意味があることだと思っています。だからこそ、その意味をきちんと人へ伝えて行かなくてはいけないのですが、それが上手くできていない。まだまだやるべきことはたくさんありますので、ひとつひとつ本当に実現していきたいと思います。
────それは、お寺に限らず一般の企業でも同じことですね。顧客の為に、何をするべきかを社員一人一人が見つめ直さなければ、世の中は変わって行きません。本日は貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
今回は仏教という視点から人財育成についてお話をお伺いしたのですが、そこから感じたことは、起縁と言う考え方です。『一切のものは、それそのものとして成り立っているものは何一つなく、必ず何かと繋がっている』ということ。
人は一人では生きられず、周りの助けがあり、そして、周囲と関わり合いながら生きています。しかし、忙しい時や、自分自身が落ち込んでいる時などは、その事を忘れ、自分一人が仕事をしている気になる。また、自分中心に物事を考えてしまったり、他責にしてしまったりしていないでしょうか。
人は自分自身に目を向けることは非常に難しく、周りの人達との繋がりや対比によって、自分を見ることができます。だからこそ、人との関わりは重要になる。
今回のお話を通じ、改めて周囲の人達の存在の大切さ、尊さを学んだように思います。職場や普段の生活でもその事を意識し、より良い関係性を築きあげられるよう自ら努力する必要があるのだと痛感しました。
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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浄土真宗本願寺僧侶、布教師
松本 紹圭さん
"人の育成に最も重要なことは?"第4回目にご登場いただくのは、浄土真宗本願寺僧侶の松本紹圭さんです。一般家庭に生まれながらも、幼少期に祖父のお寺で仏教に触れたことにより、大学卒業後、仏門へ入られた松本さん。2011年にはお寺の運営をもっと良いものにしていくためにマネジメントの勉強をすべく、インドでMBAを取得。今回は、松本さんに"仏教の教えからひも解く人財育成"について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
松本 紹圭(SHOUKEI MATSUMOTO)
1979年北海道生まれ。東京大学文学部哲学学科卒業。東京神谷町の光明寺所属。仏教の魅力を老若男女に発信すべく、インターネット寺院「彼岸寺」を設立。また、お寺を会場とした音楽イベント「誰そ彼(たそがれ)」や寺院内カフェ「ツナガルオテラ神谷町オープンテラス」を運営。2012年からは、お寺の運営と住職の在り方を学ぶ「未来の住職塾」を開講
インターネット寺院「彼岸寺」(http://www.higan.net)
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自分の在り様を明らかにする
────松本さんは、現在、仏教を取り入れた様々なお取組みをされていると伺っております(プロフィール参照)。この度は、仏教の観点から、人の育成や経営ついてお話をお伺いできればと考えております。まず、松本さんの仏教に対するお考えをお教えいただけますでしょうか。
仏教の面白いところは、私も10年間お坊さんをやっていますけれども、本当に氷山の一角といいますか、まだほんの一部にしか触れられていないのではないかと思います。どこまで深いんだろう...と思うくらい深いです。
人生のその時その時で抱えている問題や悩みは違いますよね。だからこそ、同じ経典でもその都度響いてくる部分が違ったり、後から振り返ってみて「これはこういうことだったのか」と気づくこともあります。
仏教とはブッダの教えであり、ブッダとは目覚めた人という意味ですから、仏教は目覚めた人の教えであり、みんなが目覚めていくための教えです。ですから、教えをただ聞いていればいいということではなく、それを学んで私たちも目覚めて行くということが大事です。
────与えられたことを鵜呑みにするのではなく、自ら考え、感じることが重要ということですね。
そうですね。知的に理解するということだけでなく、自分の人生において、仏教から頂いた物が身になっていく。我が身が照らされることで、仏教が生きてくるわけです。
そして、仏教は仏道とも言いますから、ずっとその道を歩き続けることが大事です。仏教が私の人生においてどう働いてくるのかというと、我が身の在り様を明らかにしてくれることで、前に進んで行く力を与えてくれる。自分の現在地が分かるということは、迷いから抜け出る第一歩です。
人間は自分の顔は鏡を使わなければ見ることができないですよね。目も外向きに付いていますから、自分で自分を見ることができない。それなのに、人間は自我が強いものですから、自分が自分がという、自分の正しさだったり、そういうところにこだわりますよね。それは、自分が見えていないものがたくさんあるんだってことが見えていない状態なんです。で、わかった気になってしまう。
────大方の人が、自分自身を見る事が出来ていないと言う事ですよね。
はい。つまり、自分が自分と思っているものの不確かさを、あたかもあるがように捉えて生きているんです。たとえば、人は"私"という存在を中心に考えてしまいがちです。そして、私という存在の領域を、不安感に突き動かされて、より拡大して行こう、より他の人よりも大きな物にしていこうと思っているんですね。そういう見方でいうと、人生損か得かという話になってくる。しかし損か得かという見方で生きていくということは、かなり息苦しい生き方です。仏教的に突き詰めれば、「私」という存在の根拠は、本当はどこにもありません。
裕福な人が必ずしも幸福度が高くないというのも、つまりどこまで「私」を拡大しても、不安感は解消されないどころか、大きくなってしまうからだと思うんです。もちろん、今日明日の食べるものがないという状態は解消していかなくてはいけません。しかし、最低限の物が満たされていているならば、本来損か得かという発想ではなく、心をどう自由にしていくのかということが重要だと思います。
────そうですね。確かに常に損か得かという発想であったり、人と比べることによって初めて自分の幸せを実感するという考え方の方もいらっしゃいますよね。
はい。でも、それでは深い幸せは感じられないでしょう。人間は人と人とが繋がりあって生きているんですね。仏教の大切な考え方として「縁起」というものがあります。この世の一切のものは、それそのものだけで成り立っているものは何一つもないと言うことです。
結局、私という人は、人との繋がりや、その他あらゆる命との繋がりの中にしかないんだということです。周りの存在を感じずして、自分自身の今の立ち位置を見ることはできません。そして、その一瞬一瞬で今まさに自分がここにあるということがどれだけありがたい、文字通り"有り難い"ことか、考えてみる。
────日々忙しく生活をしていると、そういったことを考えずに自分中心で物事を考えていたなと改めて痛感します。周りの人の助けや支えによって今の自分がある...。そう思うと感謝の気持ちが湧いてきます。
もちろん人生楽しい事ばかりではなく、辛いことや悲しいこと等いろいろなことがありますが、瞬間瞬間が人生修業であり、幸せは今の瞬間の他にないんだと知ることが大事だと思います。
幸せというのもいろんな語源があるみたいですけれども、幸せって"あわせ"という言葉が入っていますよね。瞬間瞬間に、今たまたま出会っているご縁を、最大限に楽しむこと、最大限享受することの他に、人生はないのでしょう。
────ご縁というと、とてもいいイメージですが、先程おっしゃられたように仏教の考え方から言うと苦難や失敗事もまたご縁であり、幸せということだと思います。しかし、自分にとってプラスの事ならばすんなりと受け入れられますが、辛いこと悲しい事を目の前にして、それを楽しむという気にはなかなかなれませんよね。
はい。しかし、今の地点からいうと。未来に行けるわけでもないし、過去に行けるわけでもありません。未来と過去と言うものだって、その自分の認識の中のものですから。つい未来に意識が行ったり、何であんなことしちゃったんだろう...。というところに気持ちが行ってしまうと、今しなくてはいけないこと、受け止めなくてはいけないことが、おろそかになってしまうんです。それが、迷いの状態だと思います。
事業の使命とビジョンを明確にし、足元を固める
────今起きている事を、受けとめることがまずは一番重要という事ですよね。
そうなんです。自分のことを省みる時間や機会が無くなると自身を見失ってしまうので。それから、物事に対し文句ばっかり言っている人もいますよね。たしかに、自分を客観的に見る作業は辛いものです。変化を迫られるからです。自分以外の周囲だけをみていれば、誰かのせいにすればいい。だから、文句が出てくる。
────私自身も、なかなか自分を見る事が苦手で(笑)周りの人から注意されて、見たくない自分を見て抵抗してしまい、後々反省したりすることもあるのですが、松本さんはそういったことはありますでしょうか。
よくあります(笑)。ただ、自分の感情をありのままに受け入れ、反発したくなる気持ちも含め、そういう人間なんだなと。ハッと気づいて、一歩引いて見るようには心がけています。
特に浄土真宗では、自分のことを愚者と見る視点があります。人間わかってるような顔をして本当は分かってないんだということ。自分が何も分かっていない・出来ていないことがわかるということは、大きな意識転換です。何もわかっていなんだということが本当に腹の底に落ちてくるということは、真理に照らされないとそうはならないわけですから。
────親鸞の言葉で『善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ、すくわれる。悪人ならば、なおさらだ)』と言う言葉がありますよね。
はい。それは、自分のことを善人であると信じているうちではダメで、自分の悪いところや至らないところを深く自覚した人からこそ出てくる言葉だと思います。
────私どもは、企業の人財育成のお手伝いをさせていただいておりますが、トレーニングをしている中で、"自分は何もわかっていなかった..."、と気づいた受講者の方がどんどんブレイクスルーをして変わっていくのを目の当たりにしています。
私は、人が成長するということは、自分を捨てるということだと思うんです。成長すればするほど、さらにどこまで捨てられるかということが勝負になってくる。私も教育現場を持っておりまして、『未来の住職塾』というお坊さん向けのお寺経営塾を開いております。そこに来るお坊さんは、みなさんお寺を背負って来られているんですね。お坊さんも同じなんですけれども、これからのお寺をどうしたらいいのかという話をするんです。その中で、最新の経営学も教えたりするのですが、すると、みなさんそこに何かこれからの経営に対する答えがあるんだと思ってしまうんですよね。
でも、私はまずはお寺をいろんな角度から見てみましょうと言うんです。そこで何が見えてくるかというと、魔法のようなこれからのお寺の突破口など、どこにもないということ。そして「自分はお坊さんとして、絶え間なく精進し続けなくちゃいけないんだ」ということがわかる。
結局、新しいことに飛びつくことではなくて、足元をみることが大事なんだと。そして本当にやらなくてはいけないことを本当にやっていくということ。それに尽きるんだということを知るために、1年間かけてプログラムをやっています。
────具体的にはどのような事をされているのでしょうか。
プログラムの一つですが、お寺360°診断というのをやっています。お寺の住職は、実は企業の社長さん以上に孤独なところがあって、お坊さんにものを申してくれる人がなかなかいないんですね。だから、まずは足元、自分自身を見てもらうために顧客視点というか、ぐるり360度からステークホルダーのみなさんに評価してもらう。お寺のステークホルダーは檀家さんだけではなく、地域社会の人とか業者さん、親しいお寺さんだったり、寺族といってご住職の奥さんとか家族とか、そういう人みんなにアンケートに回答してもらい、それを事務局で集計してレポートとして渡すということをしています。
────私達も教育の際に他面評価は結構使うんですね。ただ、なかなか受け入れられない人もいますよね。
やはり、かなりの葛藤があると思います。でも、お坊さんの面白いところで、ここで仏教が効いてくるんですね。人間の性質としては、自分に対するネガティブな評価は受け入れたくないものですが、自分はお坊さんだという自覚も当然あるので、ネガティブな評価にも目をつぶるわけにはいかないなと。普段から、「仏法とは自分の在り様を照らしてくれるものです」という説法している自分が、客観的な意見に蓋をするわけにはいかないよね...と(笑)。だから苦しいながらもみんな受け入れようとします。
────そこを超えると何か変わりますか?
それは、物凄い変化です。一度小さなプライドを捨てて、自分の良いところも悪いところも全部受け止めてしまえば、それはある意味、自分を捨て去った状態になるわけですよ。ちっぽけな自分が壊される。そうすると今度は、ポテンシャルが100%開いていくことが始まると思うんですよね。空っぽにならないと何も入って来ませんからね。
気付きを得るためには、自身の足元をきちんと見つめること。その為には、自身の至らなさを知る事が重要と語って下さった松本さん。後編では仏教から見た人財育成や経営についてお話を伺いました。
インタビュー後記
今回松本さんにお話をお伺いし、最も印象に残っているのは『成長するということは、自分を捨てるということだと思うんです』という言葉です。
一見すると、成長とは"今までの積み重ね"と思いがちですが、その積み重ねがあるからこそ、過去の経験という狭い枠の中から簡単に答えを導きだそうとしたり、挑戦する前から諦めてしまったりしてしまうと言います。
今ままで培ってきたものを一旦、空っぽにする...。つまり、自分の自尊心を捨てることが必要になります。しかし、それはなかなか出来ないことだと思います。だからこそ、指導者側がきちんと今の現状を伝え、そのことを気づかせることが重要になります。そして新たな考えを入れるためのスペースを作ってあげる(頭の中を空っぽにさせる、変なこだわりを捨てさせる)。そのことこそが、指導者が行うべき任務の一つなのかもしれません。
*続きは後編でどうぞ。
第四回【育成の瞬間】成長とは自分を捨てること-後編
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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風鈴職人
篠原 儀治さん
"人の育成に最も重要なことは?"第3回目にご登場いただくのは、江戸川区無形文化財保有者で風鈴職人の篠原儀治さんです。江戸風鈴の名付け親であり、海外でも職人芸の披露を重ねる他、江戸川区の小学校を対象に職業体験を行う等、多くの人々に伝統芸能を広めていらっしゃいます。職人として、また、師匠として、お弟子さんを育てていられる篠原さんに"伝統工芸を後世に伝える為の育成方法"について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
篠原 儀治(YOSHIHARU SHINOHARA)
1924年生まれ。幼いころより、父篠原又平にガラス風鈴作りを学ぶ。57年江戸川区無形文化財認定。16年東京都名誉都民の称号を受章。
篠原風鈴本舗(http://www.edofurin.com/)
東京でただ一軒、江戸時代から伝わる江戸風鈴を作っている風鈴屋
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伝統工芸品に興味を持たせる
────現在、小学生向けに職人の職業体験等を行っていると伺っていますが。
江戸川区は人口が67万人いて、小学校が73校あるんです。それでまず、教育委員会へ行きまして、子ども達が10歳になったら職人の生活を見せる機会を作ってくれないかとお願いしに行ったんです。何故10歳かというと。私が10歳の時には風鈴屋の子どもでしたから、当然風鈴屋をやるつもりでした。でもある時、映画を見に行ったんですね。そしたら、ターザンが出てきて、密猟する人達をやっつけちゃうんですよ。それに感動して、それでアフリカ行こう!って思ったのが、私が10歳の時なんです。
物事や将来の考えが付く頃って小学生の時。その時に職人の生きざまを見せて、自分の進む道を決める手伝いができたらと思いまして。それに、将来の職人もそこから生まれてくれれば良いですよね。ただ、この職人も馬鹿じゃ出来ないんですよ。よく、親御さんに「うちの子馬鹿だから何の職人にした方がいいでしょうか」って言われるんですが、今は昔と違ってそういう考え方だと子どもさんが可哀想。それに、個人で働く職人は売る技術も身につけなくちゃいけないから、今後は大学行って教養を付けたそういった職人さんが多くなるんじゃないかと思いますね。
※左:吹きガラスの実演風景、右:絵付けの作業台
────職人さんも技術だけでは食べていけない時代。これからは、きちんとした考えを持ち、戦略的に商売が出来るようにならなくてはいけないということですね。篠原さんは海外で展示会等もされていると伺っておりますが、それも売る技術の一つでしょうか。
そうですね。日本で売れなくなってきたのなら、売れる所に持って行って売る。でも、外国へ風鈴を持って行っても雑音としてみられちゃうんですよ。だから、アメリカへ風鈴を持って行った時に風鈴の色に意味を付けたんですね。赤は太陽。太陽だから、妖怪とかお化けが寄って来ないとういう魔よけ用。黄色は、マネーで金運。緑色は健康。グリーンがあれば酸素がある。そうすると健康で病気にならないという風に。それで、その翌年にアメリカへ行ったら、クリスマスのツリーにぶら下げてたんです。これは大成功ですよね(笑)。
────いくら技術があっても、買ってくれる人がいなければ、商売としては成り立たちません。しかし、そこに篠原さんは新たな意味づけをし、需要を作ったということですね。それは、風鈴のよさを伝え、新たな消費者を育てているということにも繋がりますね。
はい。買ってくれる人、興味を持つ人を増やすんですよ。ただ、その為には、いろんなことに挑戦することが重要なんです。出る杭になって、ドンドンドンドン頭を叩かれるんですね。出る杭になると世間も見えてきますから。人間は七転び八起きじゃない。失敗してもいいんです。頭をたたかれ続けて、そのうちに良いものが見つかってくるわけで。だから、どんな時も沈んじゃダメなんです。そういう風にうちの若いもんにもいつも言っています。
常に柔軟な考え方をする
────いろいろと挑戦する中で、大変だった経験等ありますでしょうか。
いっぱいありますよ(笑)。昔、絵具屋さんに絵具を買いにいったら、「お金あるのか」って言われて。「ある」って言ったんだけど、「絵具はあるが、お前に売る絵具は無いよ」っと言われたことがありましてね。その時は、本当にがくんと来ました。でも、だったらそこの絵具なんて使わないぞ。と考え直し色々とタウンページで調べて、絵具を作ってくれる人を探したんです。そしたら、凄く良くて、他にも全然売っていない絵具を手にする事が出来たんです。世の中にはそういう手助けしてくれる人もいる。だから、へっこんじゃいけないんですよ。前へ前へ進んで行かなくちゃいけない。
────考え方の転換ですね。しかし、今の子たちは打たれ弱いといわれていますが。
それは、自分が大変だと思うから落ち込んじゃうんでしょう。よく、私もビジネスマンや学校の生徒達の前で話をする機会があるんですけれども、『人間恥を欠いても、欲は忘れるな』と言っています。自分から、積極的に行動しなさいと。結局、待っているだけ、人が何とかしてくれると思うからダメなんです。私は、親の会社が火事になり倒産したこともあり、本当に大変な経験もいっぱいしました。でも、だからこそ生きて行く為にいろんな事に挑戦して来たんですね。
例えば、昔、露店をやっていたこともありましてね。本当は、露店商に入らなければ出来ないんですけれども、渋谷から多摩川までを仕切っている親方がいて、面識もなかったのですが「何かお手伝いありますか」と電話をしたんです。そしたら、「配達してもらいたいものがあるけど、運送屋はいっぱいいる」と。だから、私は「タダでやります」と言ったんです。その代り条件をだして「私の風鈴が売れる場所を1カ所作って下さい」ってお願いしたんです。親方が紹介する場所って、大体ものが売れる場所なんですよ。一晩やって300万円売れる場所もありました。結局それを10年やりましたよ。
そういうこともいろいろやって食べて来たんです。そして、私はそういう姿をどんどんと若い人に見せてきたんです。私の考え方、そして、実際に行動する姿を見せることによって、親方の真似すればご飯が食べられるという見本になろうとね。
────率先垂範で口で言うのではなく、自身の背中を見せる教育を長年して来られたということですね。最後に今後についてお伺いできますでしょうか。
メロディ風鈴を作りたいと思っています。今、日本では音の文化が無くなっています。40年くらい前に風鈴の音も"騒音公害だ"とやり玉にあげられたこともあります。でもそれは、音の響きが、一方的だからだと思います。巫女が鈴を鳴らす、あれは一方的な音ですよね。あれにメロディがあったら、音を楽しむ音楽になります。ここを触ると"ド"とか"レ"とか"ミ"とか。そういった風鈴を作りたいと思います。
────伝統工芸を伝承するということについてはどうお考えでしょうか。
私は、昔からのやり方を変えない、考え方を変えない伝統を良しとしないんです。もちろん、それをお客さんが望んでいるのならいいのですが、文化は人が希望するのもに変わって行くわけですから。だったら、職人も私はこれは出来ますが、これは出来ませんというのではなく、ドンドン開発して行くといいですよね。うちの風鈴だと私が作ると1個1000円いくら、でも孫が作ると1個3万円なんです(笑)。
────篠原さんは江戸川区無形文化財産保有者ですよね。それなのにお孫さんの方が高い商品を作られるんですか。
そういうことなんです。それだけ、今の需要に合っているということなんです。ただ、おもちゃになってはいけないと思いますね。私が、江戸風鈴と名付けたのですが、それまでは、風鈴はタウンページでおもちゃの欄に載っていたんです。でも、違うよと。そこから引っ張り出して、伝統工芸品だよと。だから、もとのものを残しながら、何かを変えて行くようにする。あまりにも変え過ぎてしまうと自滅します。お客さんも先入観がありますからね。ただ、お客様が三角の風鈴を欲しいと言えば、そこからは作ってもいいということです。「もちろん作れますよ」と堂々とね(笑)。
────職人には自由な発想と、時代の流れを読む力が必要なんですね。しかも、それらは、言葉で教えるのではなく、自身で考えさせる事がこれからの職人達にとっては重要だということがよくわかりました。本日は貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
自らの後ろ姿を見せて育てる...。
今回お話をお伺いした篠原さんは、常に職人たちの見本になるように、そして、今後の厳しい時代でも職人たちが生き抜いて行けるようにと頭を使い、身体を使って新しい道を切り開いて来たといいます。
"上司が部下を見抜くには3年かかるが、部下が上司を見抜くのは3日で見抜く"といわれるように、部下はよく上司を見ています。つまり、部下が育たないと嘆く前に、まずは上司である自分の日頃の在り方を見直す必要があるのかもしれません。
篠原さんの取材を通じて、上司の率先垂範こそが部下にとってよい刺激になるのだと改めて実感しました。
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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風鈴職人
篠原 儀治さん
"人の育成に最も重要なことは?"第3回目にご登場いただくのは、江戸川区無形文化財保有者で風鈴職人の篠原儀治さんです。江戸風鈴の名付け親であり、海外でも職人芸の披露を重ねる他、江戸川区の小学校を対象に職業体験を行う等、多くの人々に伝統芸能を広めていらっしゃいます。職人として、また、師匠として、お弟子さんを育てていられる篠原さんに"伝統工芸を後世に伝える為の育成方法"について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
篠原 儀治(YOSHIHARU SHINOHARA)
1924年生まれ。幼いころより、父篠原又平にガラス風鈴作りを学ぶ。57年江戸川区無形文化財認定。16年東京都名誉都民の称号を受章。
篠原風鈴本舗(http://www.edofurin.com/)
東京でただ一軒、江戸時代から伝わる江戸風鈴を作っている風鈴屋
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職人の心得
────このたび"人が育つを考察する"では、人の育成について様々な方にお話を伺っております。篠原さんにおかれましては、65年間もの間、伝統工芸品である風鈴作りを一筋に貫き、職人として自らの技術を高め、また、次世代へとその技術を伝承していると伺っております。今回は、是非とも、伝統工芸を伝えるという観点から人の育成についてお話をお伺いできればと思います。
そうですね...。人を育てるってことは、自分が倒れた時とかに誰かに任せられるという体制を作ることですね。特に、伝承されてきた技術は、無くしてしまうのはもったいない。昔は、親が職人だと、子は小さい時から仕事を見て育って、その技術を継いだりもしてましたが、最近はあまり子どもが後を継がなくなってしまいましたよね。
うちのせがれも中学の頃から手伝いをしていて、大学の頃には何でも出来るようになっていましたが、法律学部の法律学科を卒業して司法試験を受けたりしていましてね。結局、何度か受けてダメでそれで風鈴屋さんになったんです。正直、後継者が出来て良かったと思ってます。それに、今はその息子の娘、つまり、私の孫も後を継ぎたいと言ってくれているんです。
────現在、風鈴に限らず大抵の物は、大量生産・大量販売によって低価格なものが世の中に溢れており、職人の技術、そして生きる道が失われつつあるように思います。しかし、そのような厳しい世界であっても、息子さんやお孫さんは篠原さんの後姿を見て、自分も職人を目指そうと思ったということですよね。
そうでしょうね。でも、私の教え方は厳しいですよ。孫は女ばっかり3人だったんだけど、そのうち2人が今風鈴を作っているんですね。それに弟子もいますが、私が人を育てる時に思うのは、仕事を持っている職人は強いということですね。人から仕事を貰っている人は弱い。だから、人から仕事を貰って食わしてもらっているような職人ではダメなんですよ。自分で仕事を作らなくちゃ。それには、まず、手を動かす。口なんて動かすなと言っています。うちは、みんな見習いです。見て習うんですよ。学校じゃないんだから。
────職人を育てる上で重要なことは何だと思いますか。
一番は人の欠点。その人の悪いところを認めてやることだと思います。それは、「お前、これが弱いな」なんて言わないんです。ほったらかしにしておくんですね。そうすると、最後には自分で気づく。それが大事なんです。だから、こっちから言ってはいけない。こっちは黙って見ているだけなんです。
それから2番目は、職人はうぬぼれが強いから、そのうぬぼれを無くさせること。その為に、「お前みたいな不器用な奴はうちの仕事は出来ないよ」というんです。まずは不器用であること。これを認めさせるんですね。みんな職人になるくらいだから"俺は何でもできる""器用だ"って思っている人が多いんです。でも、器用な人は器用貧乏って言ってね、仕事が長く続かないんですよ。ちょこっと仕事を覚えると、どこかに行っちゃう。他に行ったらもっといい仕事があると思ってる。そんなことではダメ。だから、徹底的に"お前は仕事が出来ない"ということを常に言葉にして、わからせてあげるんですよ。
────仕事はある程度の時間を費やしていると"慣れ"で出来てしまいます。それを、自分は仕事が出来ると勘違いしてしまうということはよくあると思います。そのことが、成長を妨げることに繋がってしまうということなんですね。
人間ってうぬぼれが強いんだよ。だから、みんなピリピリしてる。自分は出来ているのにって。上司とケンカするのもうぬぼれが強いからなんだよね。これはなかなか、無くならない。自分は不器用だと常に意識していないと。
それから、3つ目は、なるべく仕事を休まないこと。一日仕事を休んで家に居たってたいしたことなんてやってないんだよ。そうするといつか怠け者になっちゃう。年中そんなことの繰り返しになるわけですよ。
一人立ちできる職人を育てる
────常に仕事のことを考え、自身を知ることで成長するということでしょうか。
そうです。それから、私には、仕事に臨む時に大事にしていることが3つあるんです。"3惚れ"って言うんですけれど、1つ目は、土地に惚れるということ。自分が仕事をしている土地にどういった歴史があるのか、自分が住んでいる場所はどういう場所か調べてみるんですね。今自分が商売をしてる土地がどういうところなのかを知っていくと愛着も湧きますよね。それがその土地で商売をするには大事なんです。
そして、2つ目は仕事に惚れる。仕事に惚れるっていうのは、自分のやっている仕事をよく知る事。40年頃前だったかな、ある男が来て「風鈴はうちのおやじが作ったものだから、お宅で年間何万個作っているかわからないけど、1個に付き○○円払って下さい」って言われたんですね。でも、話を聞いてすぐにたかりだと分かりました。
それは、私が風鈴の歴史について自分でいろいろ調べていたから知っていたんです。自分の仕事に惚れること。それは、自分がやっている仕事をどれだけ知っているかですね。分かって仕事をしているのと、知らないで仕事をしているのでは、取り組む姿勢も変わりますからね。これもまた重要な考え方です。それに、仕事の歴史を調べてみると本当に面白い。私は、いろいろ調べて風鈴の年表なんかも作りましたよ。
※篠原さん作:風鈴の歴史をまとめた年表
そして、3つ目は母ちゃんに惚れること。子どもに批判される様な父親だったら、家庭はめちゃくちゃです。そんな状態だと仕事も頑張れない。だから、子どもに尊敬される父親じゃなくちゃいけない。それにはまず母ちゃんをどんどん褒めることが重要なんです。そうすると、母ちゃんが子どもに「お父さんがこれだけ働いているからあなた達はご飯が食べられるのよ」と。父親を尊敬する子どもを育ててくれるんです。そうなると、自分も仕事に対して今まで以上に頑張って向き合えるんです。だから、私はこの3つを弟子たちに教え込むんです。
────技術を教えるというよりも、考え方や仕事をするうえで、何が重要かを教えて行くのですね。
昔の職人は、物を作っていれば売れた時代でしょ。でも、今は違います。腕は良くても売る方法が分からなかったら、売れないんだよ。だから、私は、職人としての考えや、作ったものをお金に変えることも教えていますよ。うちの若いものには積極的にデパートに行ってもらってます。そこで自ら売る、売る為にはどうするかを考えるという経験も重要ですから。私は、うちの若いやつらにはすぐに独立出来る力を付けさせたいと思っていますので。
────仕事を教え込んだ人財に関しては、抱え込みたいという考えが強くなるというお話を、よく耳にしますが。
職人の世界でも「ここまで育てたのに辞められたら困る」って言う話をあちこちで聞きます。でも、私はそうじゃない。そんな考え方じゃ人は育たないんですよ。うちなんか商品が置いてある陳列棚のケースの中に、"ガラスの原料はこうです。これとこれを混ぜるとこういう色になります"と全部オープンにしているんですね。普通はこれ秘密です。でも、材料や技術は秘密にしていたらダメなんですよ。
ガラス業界も代用品が多くなってきていますよね。だからこそ、ガラスの価値を高めなくちゃいけないし、人も優秀な人財を育てていかなくちゃいけない。であれば、秘密事項にするのではなく、みんなで共有してより良いものを作っていかなくちゃいけない。だから、私は、ガラス屋同士で学会を作ろうじゃないかと言っているんです。そういうことをしないと人も業界も伸びませんから。
人を育てるには、まず構えから。自身や周りの環境を見直すことが重要と話して下さった篠原さん。後編では、"篠原さんの職人としての経験から我々が学ぶべきこと"についてお話をお伺いしました。
インタビュー後記
今回篠原さんのお話を伺いし、人が育つ上で重要なことは、自分の至らなさ、未熟さをきちんと理解させることにあると痛感しました。
自分は"出来ている"という"うぬぼれ"こそが、自身の成長を遅らせ、常に謙虚で、勤勉な姿勢で取り組む事、そのことこそが人を成長させる。然しながら、それらは教えられるものではなく、自ら気づくもの...。
現在、企業や学校、子どもへの教育でも、一から丁寧に教えることが良しとされ、自ら考えることが少なくなっているように思います。しかし、それでは自ら考え、努力し、新たな気付きを得る貴重な経験を奪っているのと同じことになります。時間はかかりますが、自ら気づかせること。この経験こそが、高い納得感や深い理解に繋がるのではないでしょうか。
篠原さんの「黙って見ているだけなんです」という言葉が心に響きます。
*続きは後編でどうぞ。
第三回【育成の瞬間】背中を見せる教育方法-後編
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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柔道家
古賀 稔彦さん
"人の育成に最も重要なことは?"第2回目にご登場いただくのは、柔道家の古賀稔彦さんです。現役引退後は、人の夢を後押しする指導者の道に魅せられ、子ども達の育成を目的とした町道場「古賀塾」を開塾。現在では、古賀塾で指導する傍ら、2007年4月から岡山県のIPU環太平洋大学体育学科教授、並びに女子柔道部総監督を務めていらっしゃいます。指導者として、選手・子ども達の育成に全力を尽くす古賀さんに"自ら成長していける人財の育て方"について詳しくお話をお伺いしました。
(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
古賀 稔彦(TOSHIHIKO KOGA)
1967年福岡県生まれ、佐賀県出身。中学・高校と数々の全国大会で個人・団体戦を制覇。1992年のバルセロナオリンピックでは、大会直前に膝に大怪我を負いながらも金メダルを獲得。引退後は、子ども達や大学生に柔道を教えている他、指導者として子どもたちや選手のサポートをしていきたいという思いから、医学を学ぶため2008年に弘前大学大学院医学研究科博士課程に入学、2012年に同大学を卒業し、医学博士号を取得する。また、2010年には総監督を務めているIPU環太平洋大学女子柔道部が創部4年目で全日本学生体重別団体優勝大会で初優勝の快挙を達成。2011年、2012年と連続で日本一に導き、大学柔道界においてもその指導力を発揮している。。
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自分を知ることで、人は変われる
────古賀さんは中学入学と同時に柔道の養成私塾である「講道学舎」に入門するために上京され、その後エリート街道を進んで来られたと伺っておりますが、幼少期から、柔道家としての素質は持っていらっしゃったのでしょうか。
私自身が元々病弱でしたし、気管支炎喘息を患っていて、いつも寝ているような子どもでした。あと人前に出ることも出来ない子でしたね。だから、人としゃべることもできない臆病ですし、今の私とは、正反対な子どもだったんです(笑)。でも、柔道を始めて、人に負けて悔しいという気持ちを感じたところから、自分の中にあった負けず嫌いな部分がバーンと出てきて、もう負けたくないって思うようになりましたね。
だから、僕はいろんな子どもたちを見ていて、強気な子もいれば、弱気な子もいっぱいいるんですけれども、弱気な子には、"俺もそうだったけど、きっかけがあって今はこうなれた"って話をするんですね。私が元々強気でガンガン行くような子だったら、「そういう子じゃないと向かないんだよね格闘技は。お前みたいなやつは無理だ」と一線を引いていたと思うんですよ。でも、元々は弱いところから始まっているので、考え方一つで、人は変われるっていう。
────小さい頃は、考え方も凝り固まっておらず、柔軟なので自分を変えることができると思ますが、大人になってから考え方を変えるということは大変なことだと思います。私共は人はいくつになっても変われると信じておりますが、古賀さんはどのようにお考えですか?
変われると思いますよ。それに、変われるきっかけは、日々の中でもあると思うんですよね。例えば、上司と飲みに行かなくちゃいけない。うわ、行きたくないなーと思って行かない、あるいは行きたくないなと思って行く、ここからは何も学べないんですよ。だから、どうせ行くなら、"よし、何か1つでも2つでも学んでやろう、何かないかな"と思って行くんです。
私自身そういう経験をしていたので。最初に20歳でソウルオリンピックに出場した時に負けてしまって。そしたら、周りからなんやかんや言われるんですよ。そうすると人に接するのも嫌になる。でも、どうしても人としゃべらなくちゃいけない場面がある。その時には、人と話しているんですけれども、シャットアウトしていて、何も脳に入ってこない自分にして、ああそうですかという感じにしてたんです。
でもある時、どうせ同じ時間過ごすんだったら、これからの自分にもしかしたら、"あ、これって必要かもしれないな"という言葉があるかもしれないなっと思い、一回聞いてみようと、耳栓を外したんですね(笑)。
そしたら、意外とその話って自分自身反省しなくちゃいけない話だなとか、この話自分に当てはまっているなというのが、例えば10コ話を聞いても1コ2コはあったりするんですよね。そういう考え方を持ち始めたら、話を聞く時も"また言われるのかな..."と思う場面であっても、素直に聞いてみようと思えるようになりましたね。だって、それは最終的には自分をいい方に変える力になるんだということが分かったので。
────自分を変えるためには、まず人の考え方・人の見方を取り入れてみることが重要であるということですね。
そうですね。都合よく自分のやりたいことばかりは出来ないですから。でも、今、目の前にある嫌な現実も将来の自分の肥やしになるということです。そう思えば昔のことわざでいい言葉がいっぱいありますよね。"石の上にも3年"とか、"若いうちの苦労は買ってでもしろ"など。
それって私が思うに、"計算上の答えと経験上の答えは違うんだよ"ということだと思うんです。頭で考えるだけではなく、まずはやって見ること、そして、そこから学ぶことが大事なんだと。そういったことを先人たちが言い残してくれているってことは、経験することは人生の中において必要なんだと思いますよ。
夢を夢で終わらせない為に
────今、新しく社会に出てきる子たちはゆとり世代と言われ、受け身的であり、人と競い合わない子たちが多いと言われていますが、スポーツの世界はいかがでしょうか?
スポーツでもそうなんですよ。競い合わないですし、みんな仲良しなんですよ。でも、それは今の時代の子たちだけではなくて、何かを磨き上げて行こうとか、努力をしていく、競い合わせようとするということをあまりしてこなかった時代があったんですよね、日本に。子どもを通して大人もそういう時代を過ごしていますから。だから、結局大人も一緒だと思います。
だから、その子たちの問題ではないです。基本的に今の子たちは悪い子ってあまりいないんですよ。無関心な子は多いのですが。でも、そういった子たちもこちらが真剣に話すと真剣に答えてきますよね。
────そういう無関心な子たちへの指導の仕方はどうされているのでしょうか?
私の場合は、まずその本人が自分自身どういう自分でいたいのかと聞くんです。自分がどうなりたいのか。それで、現実的には今、どいう自分なんだと。その差をその子に言わせるんですね。自分の言葉として。それで、今の自分のままで、なりたい自分になれるのか。本当にこうなりたいんであれば、今自分の何をどう変えると、なりたい自分になれるのか、その為にやらなくちゃいけないことは何か等々を聞いて、全部本人に言わせるんです。
────自分が目標にしたいものと現実とのギャップを認識させるということですね。
はい。そして、私の場合は応援してくれている家族のこととかにも少し触れるんです。私は、選手の家族に直接合って話をすることがあるので、その時に聞いたご両親の気持ちを選手に話したりするんです。そうすると、この選手は、親がどう思っているかを知ることになりますよね。すると今まで自分の都合だけでやっていたな、という気づきが芽生えたり、親の気持ちにも応えたいって思うようになっていったりもします。
どうしても、自分事だと都合もいいですし、自分勝手に楽な目標に切り替えたりもします。でもそこに、自分のことを見守って、応援してくれる人達がいるんだ。ということを強く感じると、そういう人達に格好いい姿を見せようよとか、モチベーションもあがったりします。そういうことを通して自分を奮い立たせる。そして、周りとも競い始めさせるということをやっていきますね。
あとは、自分の掲げた目標を都合よく切り替えないためには、目標を色紙に書いて、それをトイレに貼りなさいと言っています。トイレに貼ることによって、自分も一日何回も行くし、家族も行くんだと。となると、自分の目標はこれなんだと常に意識出来るし、この色紙は家族も見ていると思うと、自分が持っている小さなプライドが働いて、練習さぼりたいなって思う時でも、練習行こうかな...とか、或いは家族に、「あなたトイレに日本一って書いてあるよ、今日練習行かなくていいの?」となるじゃないですか(笑)。
────自分の弱さに負けない環境を作るということですね。
そうですね。それに、うちでは塾生だけではなく先生方も、今月は特にこれを気を付けて指導して行きたいですということを書いてもらっています。そうすると。責任が発生しますよね。それに、目標があると、先生に「○○って書いてあるけど、全然気にも掛けて無いし、注意もしていないだろう」と突っ込むこともできる。それは他の先生方の刺激にもなりますからね。自分もやっていなかった...と。そういう環境は人を育てる上で、非常に重要だと思います。
────目標をただのメモ書きにさせないことが重要なんですね。最後に今後の目標などを是非、お聞かせ下さい。
柔道は男女ありますから。女性であれば、素敵な柔道家、男性であれは、格好いい柔道家に。そして、柔道が好きだなって思ってもらええる環境を作れる指導者を一人でも多く作って行きたいと思います。
指導者でも結果を出せたからいい指導者というわけではないんです。結果というのは強制的に出すことができますから。勉強だって、徹底的な勉強をさせれば、それなりに結果が出ますよね。でもやはり大切なのは、僕らであれば、自分が接した選手達が、柔道っていいな、柔道やっていて良かったな。また、将来子ども達に柔道を教えたいというふうに柔道が好きだなと思える環境が作れる先生が私はいい先生だと思います。
ある意味、柔道も伝統ですから。柔道が好きだという子を作ることが重要なんですよ。自分は強くなったけど、もう柔道は絶対にやりたくないという悪い伝統を残したら必ず消滅して行きます。だから、私達の役目はいい伝統をつなげて行くことなんです。特に今のこうい時代、先生達の不注意で取り返しのつかない事故に繋がってしまうとか、そういう良いイメージを持たれていない部分があるので、やはり柔道っていいなと思われる様な環境、指導者を作ること。
そして、指導者になるならないに関わらず、柔道を通じて目配り・気配り・心配りが出来る。人が困っていたら助けることが出来る。ごみが落ちていたら拾うことが出来る。優しい言葉を掛けてあげることができ、仲間を思いやることが出来る等、見た目の格好よさではなく、行動として"この人格好いい"と思われるような人を育てて行きたいですね。
────古賀さんは、柔道を通じて人として何が大事であるかという根本的な考え方を指導していらっしゃるのですね。これからの教育は技やノウハウではなく、そういった人としての本質の部分を磨くことが非常に重要になるのだと改めて痛感しました。本日は貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
人を育てる上で大切なことは"本人に目標を持たせ、達成させること"と語ってくださった古賀さんですが、その目標を遂行するためには指導者のサポートが必須になるといいます。インタビュー中、古賀さんがおっしゃっておられた「百人生徒がいたら、百通りのやり方がある」という考え方のように、育成とは部下を注意深く見て、特徴・考え方を知ることから始まり、その人に合わせた指導をする事であり、それこそが育つ側の納得度・理解度を格段にUPさせ、成果に繋がるのだといいます。 今回の古賀さんのお話を通じ、人(部下や生徒)との関わり方、そして、人の育成には育つ側だけの問題ではなく、指導者側も"この人をどういう風に育てたいか"という明確なビジョンを持つことが重要なのだと改めて考えさせられました。
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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柔道家
古賀 稔彦さん
"人の育成に最も重要なことは?"第2回目にご登場いただくのは、柔道家の古賀稔彦さんです。現役引退後は、人の夢を後押しする指導者の道に魅せられ、子ども達の育成を目的とした町道場「古賀塾」を開塾。現在では、古賀塾で指導する傍ら、2007年4月から岡山県のIPU環太平洋大学体育学科教授、並びに女子柔道部総監督を務めていらっしゃいます。指導者として、選手・子ども達の育成に全力を尽くす古賀さんに"自ら成長していける人財の育て方"について詳しくお話をお伺いしました。
(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
古賀 稔彦(TOSHIHIKO KOGA)
1967年福岡県生まれ、佐賀県出身。中学・高校と数々の全国大会で個人・団体戦を制覇。1992年のバルセロナオリンピックでは、大会直前に膝に大怪我を負いながらも金メダルを獲得。引退後は、子ども達や大学生に柔道を教えている他、指導者として子どもたちや選手のサポートをしていきたいという思いから、医学を学ぶため2008年に弘前大学大学院医学研究科博士課程に入学、2012年に同大学を卒業し、医学博士号を取得する。また、2010年には総監督を務めているIPU環太平洋大学女子柔道部が創部4年目で全日本学生体重別団体優勝大会で初優勝の快挙を達成。2011年、2012年と連続で日本一に導き、大学柔道界においてもその指導力を発揮している。。
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自身の役割を認識する
────このたび"人が育つを考察する"では、人の育成について様々な方にお話を伺っております。古賀さんにおかれましては、選手として華々しい活躍をされたあと、指導者へと転身されましたが、すぐに考え方を切り替えられることはできたのでしょうか。私共は仕事柄多くの管理職の方と接する機会がございますが、プレイヤーからマネジャーへの切り替えの難しさをよく耳にします。
そうですね。私の場合はまずは、主役の座を入れ替えるという考え方をしました。現役時代は自分の考え方・自分のやりたいこと、そして自分の為にサポートしてくれる人達という環境の中で、"自分が主役"というポジションでやらせてもらいましたけれども、いざ指導者になれば、今度は、選手たちが主役になりますから、この主役をどれだけ本番に向けて準備させて輝かせることが出来るかという風に考え方を入れ替えましたね。
────その転換が非常に難しいと思われるのですが、どのようなお考えを持って取り組まれたのでしょうか。
自分の役目を考えれば、おのずと自分のポジションがどこにあるのかが分かると思います。
────それは、役割を認識するということですね。
そうですね。でも、指導者って自分主役大好きな人もいるんですよね(笑)。負けたのはお前がこうだからと言って、勝てば自分の指導力だという。でも、そうではなくて"主役は選手"なんですよ。そう思った時に、では自分の役目は何だろう...と考えるようになり、最終的には裏方に回る・演出していく、その役目を自分がやって行こうと思えるようになってきました。それからは自分の心の器が大きくなったと思います。
それに、選手といっても一人じゃないですからね。何百人もいますから。そこで、その一人一人が強かれ弱かれ、全員が主役だと思ってこちらが接して、この選手をどうやって輝かせてあげようかなと常に考えていれば、それを輝かせていくのが自分の役目だという認識も出てきますよね。また、それが自分の力量がどれだけあるのかというところに繋がるじゃないですか。
────指導者になられてから、すぐにそのようなお考えになられたのでしょうか。
いえ。最初は失敗しながら、模索しながらでした。現役が終わってすぐに全日本の女子のコーチを任されまして。その時は、自分も勢いがあり、私もよかれと思って選手と接して行くわけなんですけれども、でも何故か選手との間に信頼関係を感じないというか、教えたことを素直にやろうという姿が見えないという時期はありましたね。
その時に、現役当時の事を振り返ってみたら、私も自分のやり方が大好きな人間だったので、周りの人から"あれやってみろ""これやってみろ"と言われても、「自分はいいです。私はこうですから」と。そう簡単にハイハイと話を聞いていなかったんですね。選手っていうのは俺が俺がって世界ですが、私は特にそうだったんです(笑)。
だから、そういう考え方の自分でもどんな先生の言葉だったら、素直に聞いてみようかなと思ったのかと考えたんです。そしたら、まずは自分の話を聞いてくれる先生とは信頼関係があったなっと。そこで、自己満足的なよかれと思ってやる一方的な指導ではなくて、まずは信頼関係を作ろうと。
────信頼関係を築く為にどういったことに取り組まれたのでしょうか?
例えば、元気のない練習をしている選手がいるとしますよね。すると大方の人は「お前もっと気合入れていけー」と言うことが多いのですが、でも、そうではなくて、何故元気がないのかこちらも知る必要があるので、「お前いつも元気よく調子いいけど、今日はちょっと元気無いな。どうした?」と聞くんですよ。
そうすると、この先生は日頃から私のことを見てくれているんだと。そういった一言から、「いや実は~」と実際の内面的な問題を言うとか怪我の問題をいうとか、多少うまくいかない部分があって落ち込んでいるとかそういう話をしてくる。
それに対して、私も「俺もそういう時はあったよ」と、自分の経験談を交えながら、「じゃ、こういう練習を取り入れてみないか」とか、「ああゆうことをやってみないとか」と、選手と同じ立場に立ち、自分の経験からアドバイスをし、信頼関係を築いていきましたね。そういったことを探りながら、その選手にあった一番の指導方法を探しだしていくという形でやっていきましたね。
それに、先生っていうのは気持ちいい響きではありますけれども、本当に自分が責任を持ってやろうと思ったら、やることはたくさんありますし、大変なこともたくさんあります。選手に努力せさるのであれば、その選手を育てて行く指導者はもっと努力しないとその選手の目指すものは達成できないと私は考えています。
────今年の春に医学博士号を取得されたと伺っておりますが、それも指導者として必要だとお考えになった結果ですか?
そうですね。選手に必要なことを自分から学ぼうと思いまして、怪我が一番スポーツに関係しますから、少なからず自分はそういう知識を学びながら、選手に対応出来るようにしようと思って通う決意をしました。
────しかし、実際に大学に通うとなると、余程の覚悟がないと出来ないですよね。
そうですね。4年間ですし。それに、人はよく自分が今、持っているものだけでやろうとするんですよね。何故かというと、新しい事を学ぶとか、誰かに何かを教えてもらおうとかいうのは、正直面倒臭いですから、誰しも今更自分の知らない技を自分が覚えて、教えていこうなんて思わないですよね。
でも私の場合、現役中は自分にプライドを持ってやっていましたけれども、人を育てている今も負けたくないですからね。他の先生達に。であれば、今の自分は何をしたらいいだろうかと常に考え、行動しています。
それから、指導者というのは主役が輝いた瞬間に、初めて自分にご褒美がもらえるという特殊な世界なんです。自分は主役じゃないですから、輝くことは出来ないですけれども、でも、自分が育ててきた主役が舞台で輝いた瞬間っていうのは最高の喜びになります。
────その喜びとは、現役時代の喜びとは違うのでしょうか?
全然違いますね。現役時代は喜びましたけれども、どちらかというと達成感というか、それを目標にやっていますから。でも、育てていくっていうのは、本当の意味での喜びで、喜びぐらいじゃ終わらないですよね(笑)。やはり、人を育てるというのは見えない部分が多いですから。何故落ち込んでいるんだろう、何故やる気ないんだろうとか、こちらもいろいろなことを考えるわけじゃないですか。それは胃が痛くなる毎日ですよ。ここ20年位毎日胃薬飲んでいますね。痛くて痛くて。それくらい人を見ているんです。
ただ、そんな状況でも一緒になって懸命に努力し、その子の最高を作っていく。だからこそ、目標達成して喜んでいる子の姿を見ると、こちらとしても何とも言えない気持ちになるんですよ。親心的なものだと思うのですが。
気配り・目配り・心配り
────先程、人を育てるにはまずは信頼関係を築くことが重要だとお話を伺いましたが、その他、指導をする際に気を付けている事等ありますでしょうか?
そうですよね。目配り・気配り・心配りっていう、これは常に自分では意識しています。柔道場は広いですけれども、真反対にいる選手までも遠目で見ているという。これは目配りで、気配りの部分は、見えた瞬間に自分は何をしてあげられるかということなんです。気づいたことがあったら、大声でその選手に向かって指導する。どんなに離れている場所であっても、常に全員を見ながら、瞬間瞬間に必要な時にしっかり声を掛けて行く。それは非常に重要な事なんです。
プラス心配り。心配りっていうのはアフターケアの部分ですね。練習が終わった後に、あの子いつもと違ったな...とか、この言葉伝えられなかったなとか。そういう時は、その子にメールを送ることもします。あとは、僕が教えている大学の子たちなんかは、親元を離れている子が多かったりするので、やはり勝負が近づいてきたり、体調が悪かったり、心が不安になっていたりすると、どうしても一人ぼっちになっていくというパターンが多いんですよ。
かと言って勝負師は弱音を人に言わない性分なので、どうしても自分で処理しようとして、でも結局一人では処理できないという時も選手によってはあるんですね。それをこちらは見逃さないようにして、感じた時には、単に言葉だけではなく、その子が、体調的な部分が関係しているのであれば、何かご飯でも作って渡してあげるとか。
もしくは、「お前は一人じゃないんだぞ」と、お前と一緒に頑張りたいと思っている仲間っているんだぞっていうのを言葉で言うのではなく、行動で感じてもらうということをやってみたり。そういうのも全て指導者の役割の一つだと思いますね。そこが心配りだと思っています。結局"この先生とは一緒に歩いて行けるな"っという感じを持ってもらえてこそだと思うんです。
日々の練習から本番を想定させる
────日々の練習が、大会でよい結果を出す大きな鍵となると思いますが、練習の際に意識して指導されている事等ありますでしょうか。
自分は、"何とかしろ"という言葉をよく使いますね。
────その言葉はどういった時にで使うのでしょうか?
要するに、もうだめだ、もう出来ない、自分には勝てないと思わせないように、"何とかしろ"っと。そこには考えさせるということも含まれているんです。いつもああしろ、こうしろと指示を出していたら、指示待ち人間になってしまうんですね。だから、今ここで何とかしろというんですよ。
自分で考えさせていくことも僕らの役目ですから、「何とかしろ、考えろ」と常に言って、戦いながらも精神的なたくましさと、頭の柔軟性、瞬間的な判断力とか、それを養わさせる為に使います。だから、これは普段の練習中に言います。
────通常"何とかしろ"と言う言葉は、何かあった時に使うイメージがありますが。
そうですね。試合中だったら、間に合わないですからね。本番の時に力が出るように、そして、指導者がいなくても自分で戦えるために普段の練習から言っておくことが重要なんです。本番っていうのは一発勝負ですから、その時に何とか出来る人財を作り上げるのが私達指導者の役目です。
柔道は勝負事ですから、相手だって必死ですよ。必死な相手をそう簡単に思い通りにすることは出来ないんです。思い通りにいかないものを何とかするのが勝負の世界ですから。何とかできると思ってやっていたら、それこそ何とか出来ない瞬間が多すぎますね(笑)。でも、普段から"何とかしよう、何とかしよう"と考え続けていれば、ここぞという時に何とか出来る瞬間ってあるんですよ。
────人が育つというのは、日々考えることの積み重ねであるということですね。
そうですね。それに教育って教え育てると書きますよね。一回言って出来ない子もいます。でも、出来なかったらまた教えればいいんです。また、出来なくても、また教えればいいんです。そうやって、教えて教えて教えて育てて行くという考え方が私の根本的にあるんです。
自分だって一回教えてもらっただけですぐに出来るのか、という世界ですからね。それは、自分が出来ていることは出来ますよって言えますけれども、他の事で一回教えてもらって100%出来るのかと言われたら、出来ませんっていうのが僕の中の答えなので。だから、人間なのでやろうと思ってもできない事っていっぱいあると。でもそこは、こちらが教えて教えて育てていく、でもその教え方も質が悪かったら、何回教えても、頭に入らないというのもあると思っています。
────それは凄くよく分かります。相手に原因を求める前に、自分の教え方の反省をする事が必要ですよね。なかなか出来ませんが(笑)。
そうですね。でも、私も最初からそういう対応ができたわけではありませんから。いくら教えても思い通りにいかないとか、選手の調子がいいときもあれば悪いときもある。ですから、指導者側が柔軟な心を持つことが重要だと思っているんです。
それに、私は"先生"と呼ばれるのであれば、最低限呼ばれる責任とか、呼ばれる礼儀とかを自分を養いながら持っておくことが重要で、それが出来る人が先生と呼ばれてもいいと思っています。
"指導者として重要なこととは何か..."前編では教育に対する考え方や取り組みをお聞きしました。後編では、人の意識を変える為に、どのような指導方法をしているのか具体的にお話をお伺いします。
インタビュー後記
"自分の役目を考えれば、おのずと自分のポジションがどこにあるのかが分かると思います。"という古賀さんのお言葉はインタビューをしていた中でも、非常に印象に残っています。プレイヤーとしての役割を捨て切れず、なかなか管理職への切り替えが出来ないという話は私たちもよく耳にします。それは、短期間で数字や成果を上げることが求められていたり、今までのプレーヤーとしての手慣れた仕事の仕方・やり方の方が都合がよく、一から人を指導・指示することで、目標達成をすることへの不安や思い通りにいかない事等があるからだと思われます。しかし、人(部下)を動かして成果を上げることが管理職の本来の役割です。今回の古賀さんのお話を通じて、改めて役割を再認識し、やるべき事を明確にすることの大切さを学びました。
*続きは後編でどうぞ。
第二回【育成の瞬間】指導者の役割は選手を輝かせること-後編
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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実践女子学園中学校・高等学校
前校長 松田 由紀子さん
"人の育成に最も重要なことは?"今回から"人が育つを考察する"では、人の育成についてお話を伺ってまいります。第1回目にご登場いただくのは、前実践女子学園中学校・高等学校校長 松田由紀子さんです。公立高校の校長を経験された後、生徒募集の競争力が急落し危機に陥っていた母校である実践女子学園の再建を託され、学校改革に乗り出します。学校を改革する際に、教員のモチベーションをどのように挙げ、意識を変えていったのか、また教員歴40年の教育のプロに人との関わり方について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
松田 由紀子(YUKIKO MATSUDA)
1948年神奈川生まれ。実践女子学園を卒業後、大学進学。卒業後は神奈川県の教員になり、教頭・校長職を経て、2004年より、実践女子学園中学校・高等学校の校長に着任。2010 年に退職。
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変えること・変えないこと
────神奈川県で公立高校の校長をされていたと伺っておりますが、どのような経緯で私立である実践女子学園へ行くことになったのでしょうか?
今から20年位前ですが、四谷大塚という塾が中学入試の偏差値を出した時は実践女子学園は60あったんですね。それが、私が実践に行くことになった前年は43で17ポイントも下がっていたんです。20年の間に徐々に下がっていき、50台を維持していたのが、着任の数年前に急落していました。その時、実践の卒業生であり、公立高校の校長をしていた私に「学校の立て直しを図りたいので、校長職を引き受けてくれないか」というご依頼をいただいたのです。
────着任されたときの学校の様子はいかがでしたか?
大きな問題があるわけではなかったですね。ただ、少子化が進むことは明らかに分かっていたわけですから、他の伝統校と言われる学校は生き残りをかけて改革に取り組み情報発信をしていたんです。その中で実践が遅れを取っていて、時代性に合わせた新しい女子教育を取り入れている学校にドンドン追い抜かれていったという状況でした。
私が着任したときには昔となんら変わらない教育をしているんですよ。それなりに学力が低下してもそれまでの伝統的な先生方の教育力があるので、子ども達はしっかり育つんです。ただ受験をお考えの親御さんからすると魅力的な学校ではないと思われたと思います。
基本的には大学の進学率はその学校の入学時の学力水準と強い相関関係にありますから、低く入れば大学進学率が下がるのはあたりまえなんですね。そういう負の悪循環でした。変わらないでいることが、プラスになる社会状況ってあると思うんです。でも、逆でした。それが私が実践に行った時の最初の印象です。
そこで私が行ったことは、他の学校が15年20年前から始めた学校の新しい教育の在り方の模索を6年間で集中し、集約してやったということですね。ですから、最初はやむを得ずトップダウンみたいな形になってしまったのですね。
────急な舵取りやトップダウンで意思決定されることに対して先生方の反応はいかがでしたか?
やはり、組織として右肩上がりの時は、前例踏襲と言うのは有効に機能しますよね。ところが、右肩下がりという時には、前例踏襲と言うのは悪なんですよ。それは、変えざるを得ないでしょう。でも、変えるということは、現状を否定しなくてはいけないわけですから、当然、それを是と思って一生懸命やっている人に冷や水をかけることになるわけですよ。当然反感は出ますよね。でもそれをしない限り、右肩下がりの組織を再生することはできない。
そいう意味からすると、トップの明確な意思なり、行動力が絶対必要ですよね。それがない組織はダメになる。いわゆる責任をみんなで分担して行くという組織では難しいと思います。
これは私が実践を退職した後、初めて聞いたのですが、私の傍で一緒に頑張ってくれた広報部長の先生から、「校長が着任した一年間は、全く孤立無援でしたね」言われました。(笑)
────実際にどのように組織を変えて行ったのでしょうか。
私の場合は、いくつか有利に作用した状況があったんですね。まず一つは、私が実践の卒業生というのは大きかったと思います。今まで卒業生で校長になった方は一人もいらっしゃらなかったので。それこそ私の生徒時代は文部省の官僚の偉い方が校長をずっとやっていましたし、みなさん男性ばかりですよ。女性は、創立者の下田先生と二代目の下田先生の姪御さんがいて、私で3人目でした。それに先生方の中には、私の在学時代の同期が教員として何人か居たので、皆さんが物凄く力になってくれたと思います。
それから、元々先生方の定年は70歳だったのですが、私が着任する何年か前に65歳に引き下げになったんです。でも65歳でも本当は大変ですよ。若い子どもの相手は(笑)。まして中学生の相手をするなんて...。そこで勧奨退職を設けたんです。つまり、早期退職を打ち出したんですね。早期退職をした人は退職金を上乗せしますよと。それで、結構退職者が出たようです。
そうなると、新しく人を補充しなくてはいけない。通常ですと毎年数人ずつですが、一挙に先生が辞められたので、その先生方の補充で若い教員が大量に採用されることになったんです。
その若い教員は30歳前後なのですが、その人達からすると実践の昔ながらの女子教育に違和感を感じる方もいたようです。今まで通り、毎年数人しか入って来なければ、発言力もないですし、それを否定する力もないですけれども、一変に新陳代謝を図ったことによって、新しい先生方同士で今の時代性でこういう教育でいいのか...と、内心危惧されていたようです。外部からの評価も下がっていましたから、今までいらっしゃった先生方からも少しずつですが、疑問の声が出始めていたと思います。
意識改革には、人を思いやる心が必要
────そういった中で、どのようにして先生方の考え方を一気に変えて行ったのでしょうか。
着任半年は現状把握に充て、半年後に先生方の中から有志を募って委員会を作り、「他の私学が取り組んでいることをリサーチし、その中で実践として取り組めることは何かを精選して下さい。」とお願いをし、それを残り半年かけて行いました。また、意思決定の場ではなく、フリーに意見交換できる場を全職員参加でやってもらい、そこで委員会の提案をし、出て来た意見を実際に取り入れて全員で取りくむ。それが学校改革のスタートでした。
その時に出てきたことは、いろいろ先生方が工夫して提案したもので、私のアイデアは入っていません。やはり、現場の先生方に自分事として自ら考えて頂くことが重要で、教科指導の中でそれそれが取り組めることを考えてもらいました。
────現場の先生方が自ら考えるということが重要なのですね。
そうです。あと、もう一つ重要なことは透明性ですよね。上に立つ者が透明性を意識して仕事をしているのであれば、先生方もなぜ校長がこういう言い方をしたのか、なぜ、こういう考え方が出てきたのかが分かってくると思いますし、先生方も決定のプロセスをある程度共有できるということが重要ですね。透明性というのは、情報の共有ということでもありますね。
それから私は、透明性ということは私と教職員の間だけでなく、教員と生徒の関係でも、親御さんとの関係でも一緒だと考えていました。親御さんは子どもが大事で大事で仕方がないわけですから、その子どもが苦しんでいたり、楽しくなさそうだったり、上手くいっていないということが分かると、子ども以上に一種のパニックになるんです。学校としては、そういう親御さんと向き合わなくてはいけないですよね。私は、問題がこじれた場合の対応は校長の出番だと思っていました。
────どのような対応をされたのでしょうか?
事実を認める認めないの話になったら意味ないんです。誰も学校に悪意を持ち、嘘をつく為にわざわざ仕事を休んでまで来ませんよね。本当にそういう風な状態だと思っているから来るので、まずそれを100%受け入れるんです。それから、突然問題が起きるということは殆どなく、親御さんが学校に来るという行為の前には、大抵事前に担任と親御さんとの間でやり取りがあったりします。
ですから、私の職員に対する事前指示として、親御さんの苦情であるとか、子ども達に対するいろいろな心配事の話があった場合、必ず要点だけでもいいからメモをとっておいて下さい。いつ、誰からこういう電話がありましたと、必ず記録をしておいて下さい。というお願いをしていました。
その上で、問題がこじれた場合には関係の職員から説明を受け、事実関係の概要を理解した上で先生方と話し合い、私自身の判断を踏まえて対応をしてもらいます。ですから、私が親御さんとお会いする際には話を十二分に聞いたうえで、そういった経緯も全てお話します。すると、大抵の親御さんは、校長が自分の子どもの問題を理解していること、学校全体の判断で現在の子どもへの指導がなされていることが分かるとご納得いただけるんですね。
しかし、最善と思う方法でお子さんに指導をし、親御さんにお伝えしてもなかなか理解していもらえない場合もあります。そうなると、先生方が一人の生徒の為に圧倒的に時間を費やすということは学校として認められないというのが建前ですから、きちんとそこから先のことをお話します。
────そこから先とはどういったことでしょうか?
お子さんが今抱えている問題を解決しなくてはいけないのは、学校自身の問題ではありますが、その協力者は親御さんでもある。相互に協力し合って、お子さんの問題を解決するという考え方をして下さるとお約束ができるのであれば、私としては喜んで先生方にもお願いをし、今後とも指導を継続したいと思います。しかし、今お話した通り、先生方も一生懸命やっており、私自身の判断も入れた指導をしているにも関わらず、親御さんがそれを受け入れず、学校にも協力していただけない場合は、残念ながら私どもの教育力を超えると申し上げざる得ない。とそこまで言います。
────それは、保護者の方に学校としての考え方を伝え、より深くご理解を頂くということと、学校や先生、生徒を守るということにも繋がりますね。
はい。そうすると、十分に話を聞いてもらった上でのことなので、大抵の親御さんはご理解くださいます。本当は努力をし、希望して入った学校ですから、子どもも辞めようとは思っていませんし、親御さんも辞めさせようとは思っていませんので、お互いが現状を理解し、協力し合うということが重要なんです。
私と同席をしていた教頭や学年主任、そして担任の中には、実際に私が仕事を辞める時に、「校長先生の子どもに対する対応や保護者に対する対応は凄く勉強になり、校長先生の対応を見てから自分は親と接することが、非常に楽しくなりました」という言葉をもらったのですが、それは嬉しかったですね。
────そういった関係性の中で、先生や保護者の方の意識を変えて行かれたんですね。
教員になってから40年近くになりますが、最初の頃から比べれば、親御さんの教員に対する信頼が落ちていますし、社会からの信頼も落ちています。そして、組織としての教育力も落ちていますよね。それは、昔ですと先輩の教員が後輩を叱るなんていうのは、自然な場でありえたことなのですけれども、今は叱る方も叱れないし、言われる方も言われたくないって感じですよね。日本人の考え方がそういう考え方に変わってきたということがあるんです。
でも、突き詰めれば同じです。大事なのは、何かトラブルが起きた時には、その人が自分以上に苦しんでいるという見方に立てるかどうかですね。そういう気持ちがあれば、絶対に人と上手く接することが出来る、導くことが出来ると思います。そういう考え方が困難な問題の解決の糸口になります。
────人を指導するということは、まずは相手の気持ちに立って考える、そして、十分理解し、受け入れるということが非常に重要だということですね。最後に今後の学校のあるべき姿についてどのようにお考えでしょうか。
どんな組織でも、個人的な利害の対立など、一体化を阻害する要因は存在すると思います。しかし、それを前提として、現在の営みが社会への貢献につながるか、公正さを担保しているか、というような規範意識を組織の意思決定者が行動で示すことが、大変重要だと感じています。
────トップの方が進むべき方向を明確にすることで、先生方も自らのやるべきことが見えてくるということですね。
そうですね。学校では、生徒にとって何が必要で、何が重要かという比較的明確な共通目標が設定しやすいので、それがブレなければ、全体の協働体制は築けます。『3プラス1』の取り組みや『25年後の私』というライフデザインで、先生方の仕事量が確かに倍増したのですが、日本の豊かさの維持のためには、労働人口の縮小を補う高いレベルでの女性の参画が不可避であると私は考えています。また、生徒の将来の生き方に責任を持つという学校の使命を確認し合うという共通理解が醸成されれば、先生方の誇りと自信が困難な仕事を支えると思っています。
────現在、若者の離職率が上がっております。一つ考えられることは、"仕事がつまらないや自分に合っていない"という人が多いのですが、それは、仕事のあるべき姿や明確な目標がないからかもしれませんね。逆にそういった物をきちんと持つことで、障害を乗り越えられるということですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
人を育てる上で重要な考え方は、主体的意思を持たせ、自ら行動させること。
松田さんが行なった学校改革には、その考え方が盛り込まれていました。着任時の一時的なトップダウンはあったにしろ、現場に一番近い人達の考え方を採用し、主体的意思を持たせ、改革を進めていきました。
「先生方自らがいろいろ考え、工夫することが重要なんです」というお言葉通り、松田さんは現場の提案を受け入れ、先生方が自主的に行動することをサポートして来られました。お話を伺い感じることは、現場こそが競争力の源泉であるということ。その現場を経営トップが十分理解していることが重要なのだと改めて感じました。
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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実践女子学園中学校・高等学校
前校長 松田 由紀子さん
"人の育成に最も重要なことは?"今回から"人が育つを考察する"では、人の育成についてお話を伺ってまいります。第1回目にご登場いただくのは、前実践女子学園中学校・高等学校校長 松田由紀子さんです。公立高校の校長を経験された後、生徒募集の競争力が急落し危機に陥っていた母校である実践女子学園の再建を託され、学校改革に乗り出します。学校を改革する際に、教員のモチベーションをどのように挙げ、意識を変えていったのか、また教員歴40年の教育のプロに人との関わり方について詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
松田 由紀子(YUKIKO MATSUDA)
1948年神奈川生まれ。実践女子学園を卒業後、大学進学。卒業後は神奈川県の教員になり、教頭・校長職を経て、2004年より、実践女子学園中学校・高等学校の校長に着任。2010 年に退職。
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信頼関係がなければ、人は育てられない
────このたび"人が育つを考察する"では、人の育成について様々な方にお話を伺って行きたいと考えております。松田さんにおかれましては、教育者として40年もの間、多くの子どもたちの育成に携わってこられたことと存じます。本日は、人を育てる上で重要な事等、お話をお伺いできればと考えております。
そうですね。本来、家庭・学校・社会それぞれに教育力があり、その相互の教育力の中で子どもたちは育つといわれています。ただ、それらの教育力が共に低下しているのが、現在の日本の教育の問題で、家庭・社会の教育力の低下は、学校での教育にも深刻な影響を与えています。その分、新たな指導法が必要とされており、教員としての生徒との接し方も教育の原点に戻って考える必要があると思っています。そもそも家庭の中で子どもを育てるということと、学校の様な社会的な機能が与えられた組織が育てるのでは当然違いがあるんですね。
家庭の中であれば親子としての血縁があり、自ずと相互に愛情が生まれ、信頼も醸成されていきます。深刻な親子の対立があっても、それが前提として子どもは育っていく。しかし、学校には、その血縁という前提が当然ありません。ですから、そういう愛情とか信頼とかに変わるものを相互の関係の中で生み出す努力なければいけないと思います。
────愛情や信頼がない関係性の中で、学ぶ意欲ですとかモチベーションをあげるためには何が重要だと思いますか?
例えば、私学はすべて、また公立でも高校以上は入学試験があり、生徒は自らの意思で入学を希望したというのが建前です。それを「あなたは選択して、この学校に入ってきたのだから、私たちのやり方に従いなさい」といったら、子どもたちは到底学校に適応できないですよね。
そうなれば、当然子どもたちは反発しますし、中途退学には至らなくても、どの授業も寝たままで3年間過ごして、やっとこつじつま合わせで卒業するという子どもたちが出てくるわけです。社会は高校卒業以上を求めますから、実際に、そういうつまらない学園生活を我慢して過ごす子どもたちが出てきます。そういう点では、教員が子どもたちの心を動かすような形で役割を演ずることが絶対に必要になるだろうと思っていましたね。
────"役割を演ずる"ということは、実際にどのようなことをされているのでしょうか?
はじめは、相手をあるがままに受け入れるということですね。例えば、公立の高校では、初めから勉強が嫌いだからやらないと言う子どもたちがいます。そういう場合、50分の授業で何にも分からない状態でただ黙って座っているのは大変だねと。子どもが嫌いだと言っていることに対して、「それは、私でもあなたでも一緒だよ。やっていることが分からなくて言葉が素通りして行くような50分間であれば誰にとってもそうだろうね。でも、本当に3年間そんなふうでいいのかな」というアプローチをするんです。子どもは誰でもわかりたいと思っているし、無駄な3年間を費やすことは、凄く苦痛ですから。勉強が分かるようになりたい、出来るようになりたいという気持ちは心の奥底では全員にあります。そこのところを確認することで、初めて子どもとコミュニケーションが成立して行くと思います。
しかし、残念ながら学校の場、教師の力では、解決できない問題を抱えている子どもたちもいますので、いくら学校の場で教師と折り合って前向きに意欲を持ち、やる気になっても、やはりダメな時もあります。家庭の経済状況とかいろいろありますから。
ただ、そういう状況になったとしても、子どもたちにはここの学校に入ったけど、意味がなかったというのではなく、勉強をする意味もわかったし、先生方からも十分大事にされたと思ってもらえるようにしなければいけない。学校に自分の居場所があり、自分が認められていたということはとても大事なことです。その上で、子どもたちが自分が置かれている状況から、自分で何をすべきか判断する。例えば、今自分は退学して働かなくてはいけなんだと。でも、これは自分で選んだ道なのだ。と思えると、そうした子どもたちは社会に対して、肯定的な感覚が生まれますよね。学校はそういう場でなければならないと思うんです。
────"生徒の現状を十分理解する"という関わり方がまずもって重要だということですね。
そうです。そして前提となるのは、教える側・教えられる側の間で相互に敬意が必要ということです。お互いの心の中で誠意を持って接することが出来るか出来ないかです。
私は一教員として、初めて出会う生徒達の初めの授業で、毎年同じことを言ってきました。それは、始業と終業の礼の徹底です。それを単に、「礼をしなさい。もう一回やり直しなさい」と言っても、子どもたちはやりませんから、初めにきちんと話をしているんです。
その話というのは、『私は授業の最初と最後の礼をとても重要に思っている。だから、私もみなさん以上に礼をきちんとしますから、みなさんもきちんとして欲しい。私は教壇に立って、いろいろ教えてきましたが、よくよく考えてみたら皆さんに教えることは、自分自身が高校時代の恩師から受け継いだ事を伝えようとしている。授業とは基本的にはそいう営みであるということ。
だから、私は受け継いだものに対し感謝と謙虚の気持ちを込めて礼をする。皆さんは皆さんたちで、この中で何人かが将来私と同じように学んだことを伝える立場になるかもしれない。そうじゃなくとも、職場に入っても、子どもの教育をしていても、今勉強していることを活用していく場が必ずあるはず。そういう意味でも今の授業の内容を正確に理解をしていく責任がある。そういう形で授業は行なわれている。だから互いに礼をしましょう』というんです。
それを、初めに言っておくと、途中だらけた時でも、"もう一回やり直し"と言っただけで、子どもたちはきちんと礼をするんです。礼をするというのは一方的にさせるのはダメなんです。相互なんです。私は自分の引き継いだものの後継者として、子ども達に敬意を払う。子どもたちは受け継ぐ者として敬意を払う。それは当然なんです。そういう敬意の心が生まれない子どもに一生懸命に教えても受容はしないでしょう。
時代にあった教育とは
────"礼をする"という行動を教えるのではなく、なぜ礼が必要なのかの意味を教えることが重要なんですね。多くの方は人を育成する時に忙しさからか、最も重要な背景の部分を端折り、結果や手段だけを教えることがよくありますよね。実践女子学園では、授業の中でも背景の部分を教える等の教育をされていたのでしょうか。
生徒の自律的・能動的活動の場として『3プラス1』の教育をしておりました。『3プラス1』教育とは「キャリア教育」「感性表現教育」「国際交流教育」の3本柱があり、生徒自身が課題を設定し解決をする探求型のテーマ学習です。そして、その根幹の部分は先生方が主導する「学力改革」である。という構造になっています。
────具体的にはどのようなことをするのでしょうか。
例えば、感性表現教育では、新たな取り組みとして、典型的農村といえる岐阜県恵那市での田植えを導入したんです。実践に入る為に中学受験をするのですが、早いお子さんだと小学4年生から塾通いをしているんですね。そうすると、本来ならば家庭でご旅行に行ったり、自然体験をするなど、そういう中で育くまれるものもあるはずですが、受験中心の生活の中でそういった体験が欠落しているのではないかと危惧して機会を設けることにしました。
実際に導入してみて、そいう子たちは、初めは田んぼのオタマジャクシやタガメとかが怖くてしょうがないんですね。でも田んぼに入らざるを得なくて、最終的には入るのですが(笑)。ただ、自然体験をした子どもたちのレポートを読むと、"こういう小さな生物が生きている田んぼだからこそ安全なお米が採れるんだとよく理解できた"とか、"こんなに大変な重労働をお年寄りがやっているのは日本の問題だと思います"とか、気付くことがあるんです。
また、感性表現教育で国語科のテーマとして、生徒に俳句を作らせているのですが、田植えをした後の俳句はみんな格段に良い句が生まれてきます。ぬる田に足を入れた時の指の間に土が盛り上がってくる感覚とか、今まで味わったことがない感覚が刺激されるんですね。そこから、感性がもの凄く活性化されて子ども達の自然表現も深く・広くなるんだと思います。"風に匂いがする"とか、通常では出ない表現が出てきます。
────実際に体験させることが重要なんですね。
私の考える感性教育は、外部的な刺激があればある程、脳への伝達回路は深く・太くなると思っています。だから、通常の授業では出来ない経験をさせ脳へ刺激を与えることによって、子ども達の感覚がより研ぎ澄まされるというのが田植え体験なんです。
そういう様な鋭い感受性とか真・善・美をきちんと受け止め、感動する力がある子どもは、最終的に的確な判断が出来るようになると思っています。そして、併せて感動を表現できる力、高いコミュニケーション力の獲得を目指すのが、私の感性表現教育です。
────生徒全員が同じ体験しますが、心に響く子と響かない子はいますか?
基本的には、響かないという子はいないはずです。量的な多寡はあるでしょうが。それに、感性表現教育以外に国際交流教育やキャリア教育など、多面的に幅広く教育活動の場を設定していますので、活性化するポイントの違いはあると思うんですけれども、何をやってもダメという子はいないと思います。絶対に何かに反応して、その子どもが持っている興味・関心なりに響くと思います。
────教育の一環として25年後のキャリアデザインを描かせていると伺ったのですが。
子ども達たちにとって25年後、ちょうど40歳前後になる頃の自分を考えさせる教育をしています。女性の40歳といえば子どもが小学校を終える頃で、全ての女性の社会参加が可能になると思うんです。その時に補助的な役割、パートタイムとかではなく、大学とその後の社会参加の中で培ったキャリアで社会復帰が出来る、そういう生き方をデザインしなさいと言っています。
簡単にいうと中高で高い意欲を持って将来のライフデザインをし、そのうえで自分の大学進学を明確に定めていけば、まず大学の学科・学部選択のミスマッチがなくなりますよね。そうすれば、子どもたちはイキイキと大学生活を送れると思います。その延長上で自分の得た知識や技能を活かして、社会参加ができれば、モチベーションは高くなりますよね。そして、結婚、出産後でもキャリアを継続して頑張ると。
その際に、有名大学に進学しなさいとは一切いいませんし、先生方と絶対に言うまいと約束していたんです。それは、極端な話、盗む、騙すというような犯罪的な行為を除けば、社会には多種多様な仕事が存在していて、どれ一つとしてそれらの仕事を欠いたら社会が上手く回らないという関係性の中で、全ての仕事は存在しているということです。
だから、どんな仕事に就くことも社会に対して貢献することになる。自信を持って選びましょうと言っているんです。人間というのは、自己の利益とか興味関心だけでは生きていけない。人に求められるとか、人の役に立つということで初めて前に進む力を得るものですから。
────社会に出て、価値があることは、"こういった仕事をしている"ではなく、"自分のしている仕事は何のためにあるのかをきちんと理解していること"だと思います。そこがしっかりと理解していると、仕事の捉え方もやり方も違ってくると思います。
本当にそう思います。
生徒に寄り添い、生徒の力を引き出す教育をされて来られた松田さん。後編では、学力低下により低迷していた実践女子学園に校長として着任。学校の立て直しをされたお話について詳しくお伺いしました。
インタビュー後記
今回松田さんのお話をお伺いし、非常に心に残った言葉は"教える側・教えられる側が共に敬意を払う"という言葉です。 教える側は、『忙しい中教えてやっている』と傲慢な考え方になっていだろうか、また、教えられる側は、教えられることが当たり前になっており、『理解する努力をしなくなっている』ということはないだろうか...。上司部下の関係がうまくいかない場合、こういったお互いの自己中心的な考えもあるかもしれない。松田さんのお話を聞き、人を育てる・人が育つ場面で必要な考え方は、互いのことを尊重し、敬う心が重要であると改めて感じた。
*続きは後編でどうぞ。
第一回【育成の瞬間】学校教育に学ぶ"感性を磨く人財育成"とは-後編
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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タランテッラ・ダ・ルイジ
オーナーシェフ 寺床 雄一さん
"育つ人と育たない人"の差は何なのか?第7回目を迎える"成長の瞬間"にご登場いただくのは、イタリア料理店オーナーシェフの寺床雄一さんです。「30代で店を持つ」という目標を掲げ、単身でイタリアへ渡伊。7年間の修行へ経て、2011年2月に白金高輪でイタリア料理店『タランテッラ・ダ・ルイジ』をオープン。店内は、イタリアに居る時から少しずつ買い集めてきたという食器やタイルなど、調度品に溢れ、自慢の石窯も本場ナポリの職人を呼び寄せ作るほどのこだわりぶり。明確な目標があったからこそ、辛いことも乗り越えられ、夢を実現することが出来たと語る寺床さん。今回は、目的を持つことの大切さについて詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
寺床 雄一(YUICHI TERATOKO)
1978年東京生まれ。高校卒業後、食品商社へ就職。その後、飲食業(イタリア料理店)へ転職し、20歳の時渡伊。帰国後、2011年に東京白金高輪の閑静な住宅街にお店をオープン。
タランテッラ・ダ・ルイジ (http://tarantella-da-luigi.com/)
イタリア・ナポリの雰囲気が味わえる、本格的な南イタリア料理店。
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経営者になるということ
────イタリアの修業を終えて、日本に帰ってきた後、まず、初めに何からスタートされたのでしょうか?
資金力がなかったということと、あと、日本での経験もあまりないですし、イタリア料理という文化が、日本に果たしてどこまで根付いているのかが、分からなかったので、とりあえず大手飲食店のグループ会社に就職をしました。
それが、ちょうど上場もしていてこれからどんどん出店をするという時だったので、名古屋の店舗から始まり、京都のオープニングをやったり、大阪へ行ったり、東京に帰ってきてからも代官山・六本木ヒルズ・銀座・表参道ヒルズ・新宿等、さまざまな場所で数か月ずつ短期間で働かせていただいて、すごく勉強をさせていただきました。
土地によってお客様も違いますし、それぞれのお店でお客様がお店を使う用途だったり、食べに来る目的が違うんですね。商業施設は商業施設での食事の仕方、街中にあるようなお店だとまた違うんですよ。そういうのが見えてきたりもしましたので。
だから、今この街のこの場所(白金高輪)でやってるのも、この場所に合わせた営業スタイルを考えて、そこから今の形を作り上げてきました。
────意外でした。自分のやりたいスタイルがあって、それが実現できるのが、この白金高輪のお店だと思っていました。
それは自分の中で、もともとこういう風にやりたいというスタイルで成功出来たらいいんですけれども、僕はそうではないと思っているんですね。お客様が来て、納得してくれたり、満足してくれなかったら意味がないじゃないですか。まず、この場所でやるにあたって、近隣にはどういったお客様がいらっしゃるんだろう。どういった人たちがうちの店で、何を目的として来てくれるんだろうというところを考えた結果、今の形になったんです。
────では、お店も元々この辺り(白金高輪)を検討されていたのですか。
いえ。当時中目黒でやりたかったんですけれども、中目黒は、物件探しをしていて初めてわかったのですが、賃料が高すぎたんですね。人気の場所で飲食店さんもいっぱいあって、物件を取得するっていうのが本当に容易なことではなく、大変な思いをしました。
物件探しを始めると、就職もできなくなるんですよ。いいところが出てきたときに、すぐ行かなくちゃいけないですし、申し込みを入れたら入れたで、もうすでに何人待ちとか。一番先に申し込みを入れても大きな会社だったりとか僕よりも高く借りるという人がいると、そちらに決まっちゃうじゃないですか。それだけいい物件だと思うんですけれども、でもそこで無理をして『僕がこれ以上出します』といっても個人事業主ですし、そこまで賃料かけても採算が合わないときには無理には動かなかったんです。その時にだんだんと場所を変えて、違うところでもいいんじゃないかなと思い始めて、それからは経営は柔軟に考えなくてはいけないなと痛感しました。
※お店の入口(写真左)。店内に入るとイタリア修業時代の写真や
南イタリアのカラフルな食器が飾られている(写真右)。────日本に戻ってきてから、ご自身のお店をオープンするまでにはどのくらいの期間を費やしたのでしょうか。
2年経って漸くオープンしました。
────その間、迷い等はありませんでしたか?
凄いありましたよ、何回も。諦めることはしたくなかったですけれども、諦めた方がいいのかなと思う事もありました。
────オープンを決めた決定的な出来事等はあるのでしょうか。
失業したときですね。その頃、開業準備を進めながらも恵比寿のお店で働いていたんですね。でも、親会社がリーマンショックの影響で潰れてしまって、お店が無くなってしまったんです。そこで、これが機会だなと。今まではいろんな会社にお世話になって、食べてこられたけれど、これからは自分で起業したり、開業してやっていかなくちゃちゃけない時期なんだと思いましたね。ただ、そこから物件探しのこともあり、やはりその都度迷いはありましたけど(笑)。
支えてくれる仲間がいる
────その迷いを押し切って、一歩踏み出せたから今があるんですね。
そうですね。でも、僕は、周りに助けれられてきたというか、凄く皆さんにお世話になっていいるんだなと思います。だから、自分が一人で、これもあれもしてきて今があるというよりは、周りがみんな応援してくれたり、きっかけを作ってくれたり、チャンスをくれたおかげで、今があると思うんです。
────現在お店で一緒に働いてる方々は、どういった方々なのでしょうか?
今いるスタッフは皆さん、昔一緒に働いてた人たちが殆どなんです。そういったところで気も知れていますし、やり易いというか助かっています。
────寺床さんは本場イタリアでの修業経験があり、そこで思い描くイタリア料理店のイメージが明確にあるかと思いますが、従業員の方々ともイメージを共有したりしているのでしょうか。
なかには、イタリアに行った経験がある方たちもいたりするので、その人たちとは、イメージの共有とかはしやすいんですね。でも、それは大まかなイメージであって、働いた場所が違うので、お店でやっている内容とかも違うじゃないですか。
だから、イタリアに行ったことある人でもない人でも、イタリア料理をやっていて、飲食業が好きだとか、イタリアが好きだとか、そういう気持ちを持っている方たちだと、すんなりというか、楽しく仕事を共有し、みんなで一致団結して出来るんじゃないかと思うんです。そこが合わない場合は必然的に人も辞めて行ったりとか、もちろんしていきますから。
※ナポリ直輸入の窯(写真左)やイタリアの職人が描いたオリジナルのテーブル(写真中央)、
壺(写真右)が店内に溢れている。
※寺床さんはオーナーシェフの傍ら、窯や食材などの輸入代理店も行っている。────オーナーという経営者の目線から見て、伸びて行く人と伸びて行かない人の違いはありますか。
伸びる方は、将来の目標や自分に対して何が足りないか、また、どういうことを覚えたい等の意欲を持っている方だと思います。逆に伸びない方というのは今の状況に甘んじているというか、目標がなかったりする方だと思いますね。
ただ、それは仕方ないことだとは思うんです。みんながみんな将来的にこういう風になりたいと目標を持っている人かというと、あまりいないと思うんです。僕も若い時は何をやっていいのか分からないときはありましたし、本当に何となくの目標でしかないこともいっぱいあったので。
ただ、人それぞれ仕事の能力も考え方も違うんですけれども、仕事上で何か、例えば会社だったり社会に貢献したいとか、広い目で物事を見れる人の方が伸びるのかなという感じはします。狭い部分だったり、自分の事だけだったり、身近な何人かのことしか考えられないと、それ以外のことは考えられなくなってしまう。そして、その状況に慣れてしまうと成長もストップしてしまうと思います。
────目的や目標をみつけることは人が成長する上で、非常に重要なんですね。
そうですね。なので僕は、人を面接をする時とかには、まず店で何が出来るのかではなく、何がやりたいかを聞きます。なんでもいいと思うんですよ。僕はピッツァを習いたいからピッツァをやりたいとか、お客様と話すのが好きなので、お客様に幸せをとか、ワインを覚えたいとかいろいろあると思うんですよね。そのやりたいことを聞いたときにそれがある程度あれば、仕事をちゃんと覚えていってもらって、伸ばせると思うんです。
現場では仕事をしてお金をもらえる以上に、仕事に対してどういった考えを持って取り組むかが大切だと思うんです。仕事に対してのやりがいだとか、向上心とか、そういったものを持っている会社ってどんどんどんどん伸びていると思うんですね。それはやはりそういう人財がいるからだと思うんです。
────最後に寺床さんの今後の夢をお聞かせください。
今後は、50歳を過ぎた位までには、いろいろとやれることを増やしたいなと思っています。イタリアへも行ったり来たりもしたいというのもありますし、現在お店は一店舗でやっていますけれども、違う形で自分が居なくても出来るような仕組み作りをしたいとか。それ以外にも考えがあって、今後もやりたいことはたくさんありますし、目標もあります。でも、身体は一つですからね(笑)
ただ、今はここがオープンしたばかりで、1年半しか経っていないので、ちゃんと会社としてというかお店としてしっかりと固まればと思っています。
────現在、オープンから1年半ですが、毎日かなりの予約が入っておられますよね。それは、寺床さんの思いや考えがお客様にしっかり届いているからだと思います。本日は、貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
寺床さんはお話の途中で、「周りの人に支えられ、応援されて今がある」という言葉を何度も繰り返していました。それは、イタリアでの修業時代や、お店がオープンしてからも実際に多くの人に助けられてきたからだといいます。 "何かあった時に、自分を助けてくれる仲間"この存在は非常に大きいと思います。 しかし、誰もが助けてもらえるわけではありません。普段の物事への取り組み方、対応の仕方、また行動や言動など周囲の人は良く見ています。 ピンチの際にどれだけの人が「あなたの力になりたい」と言ってくれるか・・・。それは、常日頃の自分への評価だと思ます。 評価を気にして行動するというわけではありませんが、寺床さんのお話を聞き、改めて自身の普段の在り方を考えさせられました。
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。
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タランテッラ・ダ・ルイジ
オーナーシェフ 寺床 雄一さん
"育つ人と育たない人"の差は何なのか?第7回目を迎える"成長の瞬間"にご登場いただくのは、イタリア料理店オーナーシェフの寺床雄一さんです。「30代で店を持つ」という目標を掲げ、単身でイタリアへ渡伊。7年間の修行へ経て、2011年2月に白金高輪でイタリア料理店『タランテッラ・ダ・ルイジ』をオープン。店内は、イタリアに居る時から少しずつ買い集めてきたという食器やタイルなど、調度品に溢れ、自慢の石窯も本場ナポリの職人を呼び寄せ作るほどのこだわりぶり。明確な目標があったからこそ、辛いことも乗り越えられ、夢を実現することが出来たと語る寺床さん。今回は、目的を持つことの大切さについて詳しくお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
寺床 雄一(YUICHI TERATOKO)
1978年東京生まれ。高校卒業後、食品商社へ就職。その後、飲食業(イタリア料理店)へ転職し、20歳の時渡伊。帰国後、2011年に東京白金高輪の閑静な住宅街にお店をオープン。
タランテッラ・ダ・ルイジ (http://tarantella-da-luigi.com/)
イタリア・ナポリの雰囲気が味わえる、本格的な南イタリア料理店。
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行動しなければ、何も始まらない
────このたび"人が育つを考察する"では、人の成長について様々な方にお話を伺っております。寺床さんにおかれましては、食品商社の営業マンから、現在イタリア料理店のオーナーシェフとして活躍されておりますが、今回は、どのようなご経験を経て現在に至ったのか、是非お話をお伺いできればと思っております。では、まず初めに、いつから料理に興味を持たれたのでしょうか?
そうですね。食べることは元々好きだったのですが、正直、学生時代は将来やりたいこととかは決まっていなかったですね。ただ僕は、イタリアのサッカーとか、文化、ファッションとかも好きな物が多かったんです。だから、よくイタリア料理店にも行っていました。それに、サラリーマン時代に僕を指導してくれた先輩の営業マンの方がいて、その方が言葉遣いや接待の仕方などいろいろなアドバイスをくれたりしたのですが、その方と一緒に食事に行く中で外食での喜びというか楽しみも教わり、食事をして楽しめる場所はいいなという思いが出来てきたんです。その頃から、将来的にはお店をやりたいと思うようになりましたね。
────その後、会社を辞められて料理の道へはどのようなステップを経て進んで行かれたのですか?
まずは、自分が修業する飲食店を探しました。食べ歩きをしているうちに、空間も良くて、サービスもお料理も何もかも凄く魅了されたお店があって、そこで働かせてもらいました。でも、1年ぐらいでそこの親会社が倒産してしまって、その飲食店の事業部もなくなってしまったんです。
それで、当時一緒に働いていた先輩4人で、これを機に1回イタリアに行かないかと言うことになって、1ケ月半位イタリアに行ったんですね。そしたら、世界感というか、考え方が凄く広がって、イタリア料理屋さんをやるにしても、イタリアの文化とか生活、イタリアの人達ってどういう風な考え方をしているのか。そして、どうやってお店とか食文化とかが成り立っているのだろうかと、凄く興味を持ち、イタリアで働きたいという思いが強くなったんです。
────それは、お何歳の時だったんですか?
それが、20歳...21歳、ちょうど21になる前ですね。
────では、その時から本格的に動き出したわけですね。どのような思いを持ってイタリアに行かれたのでしょうか。
現地でもピッツァ職人さんとか、料理人さんとかいろんな人達を見ていてこういう仕事は手に職ですし、自分にやりがいが持てる仕事だなって思ったんです。でも、そこだけじゃなくて、僕は経営者にもなりたかったので、経営に関することも色々勉強しなくちゃと思い、どういった考えでお店を経営されているのか等、そういうところをちゃんと見ながら細かい所まで学びたいという気持ちがありました。
────向こうで働くために、語学勉強等されていたのでしょうか。
個人レッスンで、当時東洋大学にいた日本人の先生に学んだりしていましたが、学校に行っていたからといってすぐに身に付く様なものではないので自分で辞書片手に勉強する。そんな感じでしたね。あとは、言葉なので、実際に使って覚える部分が多いと思っていましたので、イタリアに行ってそこで段々と馴れていったり、覚えていった形です。
────ためらいは無かったのですか?
もちろん、ありました。いろんな不安とか、迷いとかはあって、向こうに家族とか親しい友人がいるのであれば、多少は不安も無いのでしょうけれども、そういう人は全く居なかったので、僕としては、何も知らない土地に単身踏み入れて、本当にどうなるかも分からない状況で過ごしました。なので、最初の1年目2年目というのは本当に辛かったと言うか大変でした。
────何が一番辛かったですか?
まずは、住む場所・物件探しですね。言葉も上手く話せないので。それに僕がビザを持っていて物件を探しに行っても、大家さんが保護者的な人がいないと貸せないよ。となるわけですよ。探して行くうちに、そういうのも無しでいいよという所もやっと出てくるのですが。あとは仕事の場でも、最初のころはなかなか受け入れてもらえなかったりましたね。
頑張った結果、みんなが認めてくれた
────イタリアでの修業先はどのようにして決められたのでしょうか。
当たり前なんですけれども、みんな味が違うんですよね。技術も違いますし。だから、いろいろな店に食べ歩きに行って、まずは自分がこの人に学びたいとか、こういう味を出したいと思うところを探したんです。その中で、自分はこの人から学びたいと思う人が2人居まして、そのうちの1人に最初に弟子入りされせもらったんです。
これは後で知ったことなのですが、その方の御先祖様はピッツァのマルゲリータを考案した人で、また、その方自身も自分でピッツァ職人協会というのを創ったりして、とても有名な方だったんです。
────よく、"いきなり修業させてくれ"と飛び込んで来た日本人を受け入れてくれましたね(笑)
そうですね。初めは門前払いを受けましたが、何度かお願いをしているうちに、働かせて頂けることになって。ただ、その方は一度日本に来たことがあって日本びいきなところがあったということも大きかったと思いますよ。だから、日本人なら信用できると。そこは凄く助かりました(笑)。
────寺床さんの熱意が伝わったんですね。しかし、いくら日本びいきでも誰でも雇うというわけではありませんよね。それに、先程も初めは職場でなかなか受け入れてもらえなかったとお話されていましたが、お店のトップの方がOKしてくださっても、一緒に働く方の反応は実際どうだったのでしょうか。
周りの人はまた別ですね。日本の文化を知っている人はいないし、日本人に対しても、興味もないですからね。でも、イタリアの人ってみなさん温かいですから。初めは外国人ですし、言葉もしゃべれないので信用もないのですが、それが、何日か一緒に過ごしていくと段々と心を開いてくれて、認めてくれるところも出来て来たんです。
────信頼関係を築く為に、どういったことをされたのでしょうか?
みんなより早く出勤して、遅く迄仕事をしていましたね。仕事が出来る人って自分よりも2倍~3倍の仕事量を抱えてやっているわけですから、自分がその人と同じ時間過ごしているだけでは、補えない部分がいっぱいあるんです。であれば、仕事を覚えた時に早く来てそれを次々と終わらせる。そうすることによって、その人たちもボンボン別の仕事を教えてくれるし、渡してくれるんですよね。
そうしないと、自分の身にもつかないし、周りのためにもならないじゃないですか。自分が居て、周りが自分の2倍も3倍も仕事をやっているのであれば、足を引っ張っている状況になっているわけで、どんな職場でもそうだと思うんですけれども、入社して1年目、2年目、10年目みなさんそれぞれ仕事の能力とか、慣れとか違うけれども、会社の一員として、そこに貢献するために努力をしないといけないと思うんです。結局足を引っ張っているだけだと、もちろんそこでは給料をもらえないと思いますし、周りの人の為とか、自分のためにもならないと思うんです。
そういったところはすごく考えていました。だからこそ、周りも認めてくれたりとか、仕事を渡してくれたりだとか、教えてくれて、自分も多くのことを学べたんだと思います。
────誰よりも早く来て、必死で学んで行く中で、疲れたり、自分を甘やかしそうになったりする事はなかったのでしょうか?
もちろん、寝不足だったり体調が悪いときもあったのですが、目標があったので頑張れました。まだその時は10年先の目標だったのですが、10年後には自分のお店を持って、こうなりたい。という漠然としたものはありました。その目標を叶える為に、明日は今年は何を自分に課題とするか、そして、学ぶべきなのかをよく考えていましたね。
そうすると、その時その時で、今の自分に足りないもの、覚えなくちゃいけないものが出てきて、一生懸命やらなくちゃいけないという強い意志が沸き起こるんです。そういうのがあって頑張れたと思いますね。それがなかったら疲れたからいいやって思ってそれで終わっていたと思います。
────目標があるから頑張れるのですね。
そうですね。目的とか、目標ですね。当時は特にそうでした。何をやるにしてもプラスのことしか考えていなかったし、常に何か新しいことにチャレンジして、"将来何かしらの形で役立てるぞ"と考えを持っていました。
────新しい事にチャレンジとはどのようなことでしょうか?
僕はオーナーシェフになりたかったので、イタリア料理全体を学ぶ為には様々なことを覚えなくてはいけないと思っていたんです。例えば、まずピッツァの修業だったら、ピッツァイヨーロという専門職なので、それを学ぶ。次にステップアップして今度は、お料理とかお菓子作りとかワインの知識。あとは、イタリアのサービスの仕方も学ばなくてはいけない。なのでその都度、テーマというか自分の中で今はこういうことを学ばなくちゃいけないなと思った時に、次々に新しい学びを求めて動いていました。
────それは、ご自身でお店をオープンしたいという目標があったからこそ、やるべきことが明確に分かり様々なことにチャレンジすることが出来たのですね。
そうですね。あと向こうで頑張っている日本人の人達もそうですし、当時一緒に働いていたイタリア人の人たちも、みんな将来的な目標はそれぞれ違うのですが、熱い思いを持っている仲間が多く、そういう人たちと出会えて話をすることが出来たからどんどん進むことが出来たと思います。
それから、初めは学生ビザでイタリアに行ったのですが、3年目の時は労働ビザを取得していましたし、それまである程度有名なところで修業もしていたので経歴もあり、すんなりと自分が行きたいところ、例えば2つ星でも3つ星でもみんな雇ってくれたんです。だから、僕の中では、ちょっとずつ自信がついきて、向こうでお店を持って勝負してみたいなと思ったこともありました。せっかく自分がここまで築き上げてきたものがあるから、イタリアでやりたいと。
────なぜ日本に戻って来られたのですか?
うちの母親が病気をしたり、入退院をするようになったんですね。それが一番の原因です。その時、家族に大切にしてもらったから今がある。だから、日本に帰って親孝行したいなと思たんです。
それに、イタリア人は家族との時間とか、自分のプライベートの時間を凄く大切にしていて、仕事が第一ではなく、人生が第一で、自分の幸せや家族が一番にきているですね。そういうのを見てきたので、僕もイタリアではなく日本の親元で当初思い描いていたお店を開きたいなと考え方が変わったんです。
ほぼゼロからのスタートだったにも関わらず、明確な目標を持ったことで、一歩一歩地道に進み、2つ星や3つ星のお店にも通用するだけの力を手にした寺床さん。後編では日本に戻り、オーナーシェフとして活躍されるまでの道のりについてお話をお伺いしました。
インタビュー後記
今回インタビューをする中で、寺床さんに対し感じたことは、"行動力がある人"という印象です。 多くの人はやりたいことや、考えていることがあっても、なかなか一歩を踏み出せず、現在の状況を変えられずにいます。例えば、海外に住みたい、転職をしたい等と思っていても、リスクを考え諦めていないでしょうか。 今回お話を伺った寺床さんは「ためらいや不安はあるけれども、何事もやってみなくては分からない」。また、働かせてもらっていたお店では「誰よりも早く行き、誰よりも遅くまで残って仕事をする」というスタンスの下、自身の夢に向かって次々と新たなことにチャレンジをしていました。 物事は、一歩を踏み出さない限り何も始まらない。それは、行動してみて初めて分かることが多いからです。 リスクや不安を並べるのではなく、まずは、ある程度の確信があれば行動してみることが重要なのではないでしょうか。寺床さんのお話を伺い改めて感じました。
*続きは後編でどうぞ。
第七回【成長の瞬間】やりがいや目標は自分でつくるもの-後編
聞き手:OBT協会 伊藤みづほ
OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。