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株式会社 福島屋
代表取締役会長 福島 徹さん
地域密着、産地密着で40年間黒字経営を続けるスーパー「福島屋」。大手流通が真似のできない売場作りや自然栽培の作物を産地から直接取引し、付加価値を追求。仕事を極めた人たちの成長プロセス最終回では、生きて行く上で必要不可欠な"食"について食のプロ株式会社福島屋 代表取締役会長 福島徹さんにお話を伺いました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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【プロフィール】
株式会社福島屋 (http://www.fukushimaya.net/index.html)
1971年 有限会社福島屋を東京都羽村で創業。1980年 株式会社福島屋へ変更。無農薬・無肥料で作る自然栽培の米や野菜を積極的に扱い、『旬ではない野菜は売場に置かなくてもよい、売れ筋やナショナルブランドに頼らない』など通常のスーパーマーケットでは考えられないやり方で商圏20キロから顧客を呼び、仕事を始めて以来40年間黒字経営を続けている。
福島 徹(TORU FUKUSHIMA)
大学卒業後、家業のよろず屋を継ぎ、酒屋、コンビニを経て、34歳の時に現在の業態へ。全国の生産者から直接米や野菜を仕入れるなど、農家との距離を縮め、コラボレーションによる福島屋オリジナル商品を数多く開発。食品スーパーマーケット「福島屋」の代表の他、株式会社ユナイト(農・商・工連携ビジネスコンサルティング)代表取締役社長、農業法人「NAFF」の取締役を兼任。著書に「食の理想と現実」(幻冬舎)がある。
食のあるべき姿
今、どれだけの人が朝食をきちんと取っているのだろうか。その中の何割の家庭で味噌汁をインスタントの出汁を使わず、カツオや煮干しの出汁を取って作っているのだろうか。本来の日本は、一つの食事を作るのに多くの手間がかかっていました。然しながら、今の世の中は総インスタント化し、また、食べ物に限らずファーストフード化しています。
「日本人の感性が落ちてきていますね。天然のブリと、養殖のはまちだと、案外天然のブリが嫌われるんですよ」と福島さん。共働きで家事の短縮化や子育ての手助けを狙って出来た商品の裏で、素晴らしき私たちの食文化、そして、日本人の味覚が失われつつあります。
福島さんは続けて語ります。「進歩、成長を目指して行われる研究・開発によって多くの人が幸せになってきたことを否定するつもりはありません。けれど、古いものと新しいものでは常に新しい物の方が価値を持つとされた時代はとっくに終焉しています。しかし、だからといって懐古趣味に走るつもりもないんです。元には戻らないと思うんですが、もう一度、食の原点回帰を目指し基本に戻っていく中で、もう一歩、上に変化出来ると思っているんです。」
現在、福島屋では、料理教室や講習会等を月に20~30回程度催し、若い人たちを中心に基礎的なお赤飯やお味噌汁の作り方を教えているそうです。「これが、結構満員なんですよ。本当は皆、知りたいんですよね」と福島さん。また、福島屋では、食文化の育成にはきちんと整った食材と向き合うことが重要であると考え、店舗に並ぶ青果の8割は福島さんが直接農家の方々に会って厳選したものだけを取り揃えた産地直送品だといいます。
その一方で、農業の世界では"いつでも、どこでも作れる"という慣行栽培(※)が主流であり、たくさんの作物をいっぺんに作り、また保存させる等、一年中好きなものを食べたいと願う消費者のニーズに合わせ、作らざるを得ないのが現状です。然しながら福島さんは「食べ物には旬がある。それは、もう食べ物の原理原則なんです。だから、商品はなくなったら、売れ切れたら終わりなんですよ。それなのに、年中同じ物が同じ味で食べられる、味の均一化が求められています。本来、味の均一というのは、モノを作るということに対して、徹底的に追及していけば常に高いレベルの物が出来上がるということであって、同じモノを作るってことが目的ではないんですよ。だから、僕は、いつでも食べられる食べ物ではなく、旬の昔ながらの貴重な味を高いレベルの状態で残していきたいと思っています。誰かが売り続けないと、伝統の野菜もやがて消えてしまいます」。
(※)慣行栽培:一般に売られている物の作られ方。農薬・化学肥料を用いて栽培する。
福島さん自身、農家の方々と出会い、自然に触れることによって、様々な事を学び食の大切さに気付いたと言います。その為、現在も月に2~5回は全国各地の農地へ自ら足を運び、自然と触れ合い、感性を磨きつつ、きらきら輝くダイヤモンドの原石のような生産者さんたちを探し歩いています。
食から日本を考える
昔は農薬など使わなくても様々な作物が取れていました。然しながら、現代では、殆どの作物に農薬を使っています。その為、様々な部分でバランスが崩れてきてしまっているといいます。
野菜はバランスを欠くと虫が来ます。化学肥料をたくさん与えると硝酸性窒素が増え、虫がドンドン来てしまう。虫は窒素を食べに来るのだそうです。害虫が発生するのは、偏りがあるということ。それは仕事や社会でも同じことだと福島さんは言います。「僕は若い頃、トラブルに巻き込まれる状況が多くありました。でもその時は、僕の心が乱れているんですね。自分が少しずるい考え方を持っていたりとか、なんとなくスルーして楽しようとか。そうするといろんなもののバランスが崩れ、良くない事が起こる」。また、それは我々の身体でも同じことだと言います。身体が病気になったりするのは全てバランスを欠いているから。福島さんは語ります「結局、人間はこういったもので生かされているですよね。最終的には医食同源なんだと思います。医療に頼るのではなく、命の源となる食を正しく摂取し、病気にならない身体を作ることが重要なんです」と。また、稲作に始まり、酒、味噌、醤油、酢という発酵技術、そして、自然の恵みを上手に取り入れた、世界が注目する健康的な食文化であることを私たち日本人が再認識するべきだと。然しながら、日本では最近、物を"必要以上に足す"方向に考え方が流れてきています。
「例えば、料理人は自己顕示欲を出すと調味料を足し、素材本来の味を変えたがる。足すことにより、本来の自然な風味がどんどんかすんでしまい最終的には失われてしまうんです。本来の良さを出すのであれば、"まず余分なものを取り除くこと"食材をあれこれいじくり回すのではなく、素材の雑味を引き算することなんですよ」と福島さん。お話をお伺いし、この考え方は料理だけではなくビジネスにも当てはまると思いました。"選択と集中"と言われるように、まず、余分な物を捨てていき、最終的に本当に必要な物を明確にしていくこと。福島さんは食を通じ、本来の自然の素晴らしさはもちろんのこと、"人が生きる"また"仕事とは"ということを全身で感じているように思います。
最後に、福島さんにとって、『食を通じて成し遂げたいこと』を伺ったところ、
「新しい価値の創造などという大それたことではなく、本質を見極めて、根本的に人間が生まれ持った本能や本性を呼び戻し、"自然体感性(※)"を養うお手伝いですね。私は食品という自然物と人間という自然物が、本質的なコミュニケーションを成立させる関係を作りたいと思っています。食は身体を作り、身体は精神を支えてくれます。だからこそ毎日の食を見直せば、豊かな心を育むことが出来る。食べる前の"いただきます"という言葉には"感謝"の気持ちが、食べ終えた後の"ごちそうさま"という言葉には"ありがとう"という気持ちが込められています。そして、美味しいものを食べて、"美味しい"って思えたら、それらを感じられるだけで幸せなことだと思います。皆さん、忙しい中なので、毎回そういった食卓でなくてもいい。週に1回でもいいので、きちんと環境を整え、食卓を整えられたら"何事もないこと、健康であること"の重要性を改めて噛み締めることが出来ると思うんです。だから、僕はそういった幸せづくりのお手伝いをしたいと考えています」(※)自然体感性:福島さんが作った造語。自然体の感性であらゆるものと交流・交感するイメージ。
今、食の安全・安心が見直されつつあり、農家の中でも、化学農法から自然栽培へと転換される農家も出てきています。然しながら、一旦始めた化学農法の土地はすぐに自然には戻りません。また、自然に戻っても安定供給までの苦労や販売ルートの問題等々、課題は山積みであるといいます。しかし、それは生産者だけの問題にあらず、私たち消費者側の認識の薄さも問題でもあると改めて感じました。福島原発や農薬、産地偽装問題もあり、今、食に対する消費者の意識が変わってきています。安心・安全だと思っていたものの前提が崩れ、何が安全で、何が危険か分からない状態に不安を抱えています。それは、今まで私たちがあまりにも食に対し無関心だったことが要因であると考えられます。毎回の食事によって身体は作られているということを思えば、消費者である私たちがもっと関心を持ち、食への意識、ひいては日本の農業を変えていかなければいけないと考える必要があるように思います。それには、まず、日々の食卓を見直し、整える機会を作ること、もっと食を意識することから始まるのだと、改めて感じました。
インタビュー後記
福島さんは、食から多くの事を学んだと話してくださいました。
然しながら、同じものを見ても、学べる人と学べない人がいます。では、その違いはどこにあるのでしょうか。OBT協会では、それは興味・関心の差だと考えます。興味・関心があるから、同じものを見ても人より多くの物に目が行く、目についた物に対し、自ら学習しようと行動する。では、その興味・関心の差とは何かというと、それは思いの差だと思います。自らのあるべき姿、こうなりたいと考える目標に到達する為に、何が必要が、何を学ばなくてはいけないか、その為に常にアンテナを立て、情報を収集する姿勢。つまり、"意欲"や"思い"といった、強い意思がなければ、自ら学ぶこということは出来ないのかもしれません。
今更ながら、学ぶということは、"自学・自育である"と改めて痛感しました。
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代表取締役会長 福島 徹さん
地域密着、産地密着で40年間黒字経営を続けるスーパー「福島屋」。大手流通が真似のできない売場作りや自然栽培の作物を産地から直接取引し、付加価値を追求。仕事を極めた人たちの成長プロセス最終回では、生きて行く上で必要不可欠な"食"について食のプロ株式会社福島屋 代表取締役会長 福島徹さんにお話を伺いました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
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株式会社福島屋 (http://www.fukushimaya.net/index.html)
1971年 有限会社福島屋を東京都羽村で創業。1980年 株式会社福島屋へ変更。無農薬・無肥料で作る自然栽培の米や野菜を積極的に扱い、『旬ではない野菜は売場に置かなくてもよい、売れ筋やナショナルブランドに頼らない』など通常のスーパーマーケットでは考えられないやり方で商圏20キロから顧客を呼び、仕事を始めて以来40年間黒字経営を続けている。
福島 徹(TORU FUKUSHIMA)
大学卒業後、家業のよろず屋を継ぎ、酒屋、コンビニを経て、34歳の時に現在の業態へ。全国の生産者から直接米や野菜を仕入れるなど、農家との距離を縮め、コラボレーションによる福島屋オリジナル商品を数多く開発。食品スーパーマーケット「福島屋」の代表の他、株式会社ユナイト(農・商・工連携ビジネスコンサルティング)代表取締役社長、農業法人「NAFF」の取締役を兼任。著書に「食の理想と現実」(幻冬舎)がある。
商売から学んだこと
福島屋の店舗に入ると、明るい店内には新鮮な果物・野菜が多く並んでいます。殆どの青果物には、生産者の顔が分かるよう写真やその作物に対しての丁寧な説明(POP)があり、目を引きます。また、同店では日本でまだあまり重要視されていない、硝酸態窒素(※)の測定を独自に行い、表示するなど、安心・安全・美味しいをコンセプトに食を提供しています。
(※)硝酸態窒素:体内で亜硝酸やニトロソアミン体に変換された場合、メトヘモグロビン血症、発癌、生殖機能の障害といった健康被害を引き起こすと考えられている。
「私は、正しい商品を吟味してお店に並べることで、商業の在り方を作り、そこから最適な報酬を得るという意味で自らを"商業家"と名乗っています」と語る福島さん。職業分類からすれば、"商人"ですが、これらの言葉にはどこかお金優先のイメージが込められ、商売の軸にあるのが金儲けだと連想させるからだといいます。「"農家""画家""小説家"のような言い方から連想しています。また、食を提供する人間が最も大切にしなければならないのが"信用"です。だから、お金儲けのプロではなく、創意工夫で報酬を頂くという意味なんです」。
しかし、お話を伺っていると元々こういったお考えではなく、事業を始めた当初は、それほど食に興味がなく、家業の酒・雑貨を扱うよろず屋を手伝い始めたと言います。然しながら、本来の実直で真面目な性格から、近くに800戸の団地が出来た際に、御用聞きとして足しげく通い、配達を繰り返し行っていたところ、お客様が増え、酒屋として税務署管内で売上がトップに。その頃から次第に少し視野を広げたスーパーマーケットという形態に興味を持ち始め、現在の食品スーパーとしての考え方に立ったといいます。
福島さんは、その当時の事を振り返り「スーパーを始めた頃、"福島屋、何店舗?"って聞かれて"1店舗"って答えるのが恥ずかしかったんです。若かったんですね。私も、若い頃は利益に執着していましたし、プライドもあったから。仲間が集まると必ず、お前んとこ何店舗?とか売上いくら?とかいう話がでるわけで。だから、早く2店舗になりたいって、複数店舗になりたい...って」その後、福島さんは、立川で150坪のお店をオープン。しかし、見知らぬ土地での事業は難航。「体重も15キロ位痩せちゃたし、睡眠時間も短くて、食べているんだけれども、睡眠時間の不足でそうなっていくんですよ。思考能力もない中で、毎日作業しているだけなんですけど、でもそれを止めるのが怖いんです。ここでアクセルを止めたらきっと一生悔いが残ると思って。だから、もしこれで死んじゃったらしょうがない。そんな気持ちで毎日続けていました。そしたら、気の毒になったからか何かはわからないけど、"昨日のメロン美味しかったよ"ってお客様から声をかけられるようになったんです。でも、素直に取れないんですよ...。それでも、毎日夜一人で陳列をしていて、本当にくたびれて床にへたっちゃっていた時に、またお客様が声をかけてくれて、本当にありがたいことなんだって。それに、当時まだまだ素人だった僕が、市場で、例えば、ほうれん草を100円で買って、それに130円の売価をつけて売る。それをお客様が買っていってくれることが、すごく感動的に思えたんです。市場に行けば、高く買いやがってドボンしたなって周りには言われるわけですよ。見る目が無いわけですからね。でも、品物を買っちゃったし、お店に並べる。そしたらそれをお客様が買ってくれるんですよ。この素人が買った物を申し訳ない。って本当に思うようになった時、本来は全てお客様の為にやっていたんだなって・・・、分かったんです」。その時に、福島さんは利益だけではなく、人と人とのつながりの大切さ、"お金を儲けること=幸福ではない"ということを学んだといいます。
「当然、理論もあるのですが、あまり理論が出しゃばると今度は感覚・感性っていうものを見失ってしまう。感性を鈍らせる大きな要素は論理であると僕は思うんですよ。だから、僕はお客様と接触して、声を聞くことが重要だと思うんです」と福島さん。
その考えは従業員達にも受け継がれ、皆が自分の力で"お客様の為に"と自発的にモノを考えるようになってきたそうです。そして現在、福島さんは顧客視点に立った店舗作りを目指せる"環境づくり"に力を注いでいます。「環境・ロケーションによって出てくるものが違ってくる。会社や社会も同じで、いろいろな人たちの行き来があって、お店も人もそうですし、それぞれの考え方があって、そこに"意"がある。そういった、思いであったり、心であったり、それら一つ一つが育つと最終的には、形(果実)になって利益が落ちてくると僕は感じています。だから、僕は、自律的な従業員を育てるための土壌を作っているんです。それが経営者の仕事だと思っています」。福島さんご自身は、若い時から自分一人でやりくりして来たそうですが、一人では出来ることは僅かであり、多くの人たちと触れあったからこそ、今の考え方があると語ります。
商業家としての取り組み
福島さんは、20年以上前から直接産地へ足を踏み入れ、直接取引を行っています。 当時は、まだ規制があり農家との取引は禁止されていましたが、規制が緩くなり始め、新たな制度がスタートした際に、山形庄内地域に入り込み、米農家との取引を成功させ、制度認証第1号となったそうです。その後、有機栽培や無農薬栽培などの青果にも着目していき、様々な農家との関係がスタートします。作物を作ることに対して非常に優秀な農家さんであっても、商売になるとなかなか上手く出来ない方々が地方にはたくさん埋もれている。そういった農家さんを福島さんは自ら掘り起こし、商業家として関わっていきます。
自然栽培とは、通常の慣行農業や有機栽培とは違い、肥料や農薬を一切使わないで育てる
栽培方法青森で自然栽培を推奨している農家は、清らかな雪解け水をたっぷり吸った上質な大根を1作で10万本も作っています。福島さんが初めて出会った頃は、収穫が現在の5分の2で4万本程度、そのうちの1万本が多少の傷やサイズの不揃い、見栄えが悪い等の理由で、出荷出来ない状況にあったそうです。福島さんは、その企画外品を使って、"切り干し大根"を作ることを勧め、また、それまで家庭用の道具で家内制手工業的に作っていたものを設備投資などを提案し、本格的に機械を導入。自然栽培の安心・安全な切り干し大根は従来の200倍もの量が出荷・販売されるようになったといいます。福島屋では、こういったPB商品を開発する際に一つの物に四つの価値を付ける"一物四価"の考え方を用いています。
大根農家を例に取ると
①大根のままで売る
②企画外の大根を切り干しに加工し、店で売る
③切干大根(煮物)、切干のサラダに惣菜に加工する
④小売ではなく、業務用としてスーパーへ、惣菜加工業者等へ卸売する
福島屋を介することにより、顧客・産地・販売者の"三方よし"の考え方が生まれます。
多くのスーパーでは、売れ筋商品やナショナルブランドが数多く並べられ、どの店も似たような陳列になっています。しかし、福島屋では、"売れ筋が必ずしもお客様から支持されているとは限らない。他の選択肢がないから、同じものを購入しているかもしれない"という考えのもと、産地農家とのコラボレーションにより、200以上ものPB商品が生まれています。三方よしの考え方から生まれたPB商品は、お客様の健康や食に対しての考え方の見直し、そして、埋もれていた農家の活性化に役立っています。
また、福島さんは地域密着という考え方のもと、店舗がある地域の人々とのコミュニケーションの重要性について「その地域の食を良くするのも悪くするのも僕たちであり、また、その地域で買物をするお客様であると考えます。販売者の僕たちだけではできなし、お客様も一緒になって、良くなかったら"良くない"、良い物は"良い"と、皆で商品を作り上げていく。また食や自然について一緒に学んでいく環境が必要だと思います。そういう"意"を持ってちゃんと密着することが重要だし、社会の構成員の一員であり、地域の一員であると思って取り組んでいます」と。
「津々浦々物語」は、福島屋が20年前から地方を廻り、名産や名物、お米、野菜など隠れた逸品を探して来た上での企画
こういった考え方に至るまでには様々な辛い経験もした。と語る福島さんに何故、その壁を越えることが出来たのかと質問をすると。
「"意"の総和みたいなものが一つの飽和点を越えた時にパラダイムの転換が起きる。それには、経験だったり、集中だったり、継続であったりが必要だと思うんだけど、それを越えると違った観点で見えるようになってくるんだよね。その違った観点でいろんなものを捉えてみると、非常にアイディアが出てくるんです。今までとは違う切り口で見ているから」と福島さん。考えて悩んで苦しんで、そして、諦めずにチャレンジしてきたからこそ、見えてきたものがある。福島さんのお話を伺い改めて感じます。
20世紀型ビジネスにより、多くの産業が大量生産、大量消費を目指してきた経済性重視の中で、食生活も時代のうねりに巻き込まれてしまったと語る福島さん。後編は、今後の食の在るべき姿についてお話をお伺いしました。
インタビュー後記
"意"の総和みたいな物が一つの飽和点を越えた時にパラダイムの転換が起きる。と語って下さった福島さん。それは、諦めず常に学び続けた結果だと思います。
学び続けるからこそ、立ちはだかる壁をいつか越えることが出来る。また、自ら学んだからこそ、越えた後に今までは気付かなかった視点が自然と身についている。
OBT協会では、"学び"とは初めは一つずつ加算的に積み上げていくものであっても、学び続ければいつの日か加算から乗算に変わると考えています。つまり、一つの気付きであっても、今まで蓄積された考え方や経験が多ければ多いほど、様々な観点と結びつき、更に深い理解・気づきが生まれます。しかしそこに到達するまでには、常に学びたい・良くしたいという意欲をもつことと、それらを妥協することなく思い続けることが必要になります。
福島さんのお話をお伺いし、改めて商業家としての思いの強さを痛感しました。
*続きは後編でどうぞ。
第五回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】 食を整え、生活を豊かにする
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伝説の教師
橋本 武さん(99歳)
"私立は公立の格下"と見られていた頃、無名だった私立灘高校を東大合格者数日本一にまで導いたといわれる橋本武さん。しかし、お話を伺うと「彼らを育てたというよりは、彼らが育っていったんですよ。人が育つのに重要なことは、押し付けではなく興味を持たせ、物事を深く調べるというきっかけを作ることです」とおっしゃいます。今回は、伝説の教師に教育についてお話をお伺いしました。
(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)
【プロフィール】
橋本 武(TAKESHI HASHIMOTO)
1912年京都府生まれ。昭和9年私立灘中学に赴任、昭和25年から中学の現代国語に検定教科書を用いず、岩波文庫の『銀の匙』(中勘助著)一冊を三年かけて読み込むという特殊な授業を展開。昭和59年の退職まで、50年にわたり灘の教壇に立ち続けた。その変わった教育スタイルで2011年秋、イグ・ノーベル賞日本版を受賞。
教え子は、故・遠藤周作氏や現神奈川県知事黒岩祐治氏を始め、各界の第一線で活躍をしている。興味をもたせる
『銀の匙』をスタートさせた年の一番初めの授業の一時間目に生徒に"国語が好きか"と質問をしたところ、好きだというのが5%くらい、嫌いだといったのは5%、あとの90%は好きでも嫌いでもない。国語の授業があるから仕方なしにやってるんだという程度だったそうです。しかし、学年の終わりに同じ質問をしたところ、嫌いだというのはやっぱり5%、ところが、あとの95%は好きに変わっていたといいます。「好きでも嫌いでもなかったのが、好きになった。それは、作品の中に入り込んで、主人公と一緒に成長する。分からなければ、先生と一緒になって調べる。調べることが身につくから、普段でも分からないことがあると積極的に本を見るようになる。それが、自分から遊ぶ感覚で学ぶということですよ」と、橋本さん。
また、授業では『銀の匙』の知識だけに偏らないよう、毎月『銀の匙』と同じ出版社の岩波文庫を指定して、課題を出し、生徒に読ませたといいます。その際、読んだ証に本のあらすじを原稿用紙2枚程度にまとめなさい。まとめるだけではなく感想を、どこの部分に感動したとか、どこの考え方が素晴らしいとか、こんな考え方には賛成できないとか、自分の思ったことをなんでも自由に書きなさいと。しかも、そこでは「宿題をしてくれば、平常点は満点です。上手に書こうと下手に書こうと賛成意見をいおうと反対意見をいおうと、自分の思った通り答えが書いてあれば、満点です。そうすると彼らは、こんなこと書いて点が引かれないかな、悪い点付けられたらたまらん。なんて気にする必要はなくて、思ったことが書ける。だから、あれも読み、これも読みってするんです。そうしているうちに、本に興味が湧いてきます。こうしていると、本を通して世の中を見たり、人間を見たりする目が広がっていく。そういったことを繰り返し行うことで、興味を持たせていくんです。だから、興味があれば自ら育つんですよ」。続けて橋本さんは語ります。「自然に遊んでいるつもりだけど、最終的にはちゃんと勉強になる。そうやって自然に仕向けていくことがプロの教師のやり方だと思っています」と。
しかし、「それをやらせる。それはもう大変な時間と労働ですね(笑)自分ではじめに本を読んで、この本は薦められるってものじゃないといけないし、書いてきた作文を読まなくちゃなりませんよ。でも、今頃になってね、生徒があの時の先生大変だったろうなあって思う。といってくれるようになった。その時は分からんで、宿題をいろいろいわれる。本を読まなくちゃいけない。まあ自分からはやるけれども、読まされているわけですからね。『銀の匙』の授業だって、生徒は他のことは知りませんから、こういう授業なんだなあってやっている。でも、社会へ出て自分が仕事をしたり、自分がモノを書いたりなんかした時に始めて分かる。それでいいんです。」
銀の匙再び
2011年6月橋本さんは、98歳で灘校での特別授業「土曜講座」にて再び教壇に立ち、27年ぶりに『銀の匙』の授業を行うこととなります。小学館が土曜講座の枠を2時間空けてくれて実現した企画だったそうです。当日はNHKや新聞・雑誌など16のメディアが全国から集まったといいます。「いい加減なことをやれば、『奇跡の教室』なんて言われていても、あんな程度のことかって、小学館の顔も潰れるし、私が50年やってきたこともダメになってしまう。ああ~さすがだなって思われなければ、浮かばれない。小学館の顔も立ちませんよ。気分的にとてもしんどかった」と橋本さん。
授業は『遊ぶ感覚で学ぶとは』をテーマに話をし、高い評価を受けたそうです。
現在の公式だけの詰め込み教育、そして、ゆとり教育の影響は、学校の中だけに留まらず、社会・ビジネスの世界でも大きな問題となっています。答えを欲しがる社員、与えられることに慣れてしまっている、また、ちょっとのことですぐに心が折れてしまう社員。それらの点についてお話をお伺いすると「教育って言うのは、叩いて、詰め込むんじゃなくて、生徒の能力を引き出していって、自分でやっていく力をつけて行かなかったら本当の教育じゃない。いわゆる、ゆとり教育っていうのは、その逆で、遊ばせてしまった。ゆとりっていうのはそんなもんじゃないんですよ。水準以上のことをやっているからゆとりが生じてくる。それなのに、そういう考え方を全然無視してしまって、遊ばせるのがゆとりだと思っている。それから、昔はね教育者のことを聖職者といっていたでしょ。今は労働者になっていますよね。昔の教育者は塾をやったような情熱家です。今の塾ではなく、昔の塾ですよ。今の塾は情熱はあるかもしれないけど、詰め込みすぎる。昔の吉田松陰さんの松下村塾(※)だとかは、人間づくり、人と人との交わりを大切にしていました。これはいい加減なもんじゃないですよ。今はそれが薄れてきている」と橋本さん。
(※)松下村塾(しょうかそんじゅく):江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾。
橋本さんのお話を伺っていると、時代の流れ、経済の豊かさとともに、人との関わりの希薄さが進み、それらが時代を担う子どもたちの教育の現場にも影響が出ているということを目のあたりにします。今後の学校教育・ビジネスマンへの教育はどうあるべきかを根本から考える時に来ていると痛感します。
橋本さんへの最後の質問 ――生まれ変わってもまた教育者になりたいですか?
「また灘で先生がやりたいです。そのときの教材も考えています。今作っているんだけれども、もちろん『銀の匙』で、それはまたちょっと違う切り口で考えています。その教材が出来上がったら、学校に寄付します。そして、何十年か後、それを見た若い教師が『銀の匙』面白そうだから、これやってみるか。っていう人がおったら、それは私の生まれ変わりです」と橋本さんは嬉しそうに語ってださいました。
インタビュー後記
お話を伺った橋本さんの授業は、まさに日本の『詰め込み教育』とは全く違うものでした。
教師から一方的に話をされ、それを聞くだけ・覚えるだけになっている現代の授業。また、日本の学校教育には必ず答えが用意されています。
しかし、社会にでれば答えのない問題がたくさんあり、自らの考えで選択しなくてはいけない場面も多々でてきます。
橋本さんが行ったのは、興味を持たせ、詳しく調べるという習慣を作り、自ら答え(見解)を出すことの楽しさ、学ぶということの本当の意味を自然と身につかせたこと。
ゆとり教育・詰め込み教育など、学校教育について現在様々な見解が出され、見直しがされていますが、教育の本質は橋本さんの行った自らヤル気にさせること。教育はその手伝いをすることなのではないかと改めて感じました。
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伝説の教師
橋本 武さん(99歳)
"私立は公立の格下"と見られていた頃、無名だった私立灘高校を東大合格者数日本一にまで導いたといわれる橋本武さん。しかし、お話を伺うと「彼らを育てたというよりは、彼らが育っていったんですよ。人が育つのに重要なことは、押し付けではなく興味を持たせ、物事を深く調べるというきっかけを作ることです」とおっしゃいます。今回は、伝説の教師に教育についてお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)。
【プロフィール】
橋本 武(TAKESHI HASHIMOTO)
1912年京都府生まれ。昭和9年私立灘中学に赴任、昭和25年から中学の現代国語に検定教科書を用いず、岩波文庫の『銀の匙』(中勘助著)一冊を三年かけて読み込むという特殊な授業を展開。昭和59年の退職まで、50年にわたり灘の教壇に立ち続けた。その変わった教育スタイルで2011年秋、イグ・ノーベル賞日本版を受賞。
教え子は、故・遠藤周作氏や現神奈川県知事黒岩祐治氏を始め、各界の第一線で活躍をしている。伝説の授業はこうして生まれた
幼少期は身体が弱く、また9人兄弟の長男として生まれたため、小さな弟妹たちの世話で小学校に入っても机に向かう時間、読書に勤しむ時間は殆ど無かったと語る橋本さん。しかし、小学校3年の国語の授業で、橋本さんの考え方は変わったといいます。
「担当の先生が、教科書ほったらかしで授業中に講談本の話をしてくれましてね。弁慶や真田幸村の話をするんですよ。その話から自分が英雄になりきり、夢中になって追体験する。それが楽しくて、楽しくて」と橋本さん。そこから講談本に興味を持ち、時間を見つけては本を読みあさっていたそうです。橋本さんは"追体験こそが、学ぶ意欲を引き出す"と語ります。その後、学生時代には当時不治の病といわれた腹膜炎にかかったり、実家の事業の破産などで、一度は学問の道から外れそうになりますが、優秀だった橋本さんは、周りからの協力もあり、また、自らの努力によって当時超難関だった東京高等師範学校(※)に合格します。
(※)当時の学制では、5年間の中等学校教育のあと、高等学校3年、大学3年として進学。しかし、家庭の経済状況で進学できない、優秀な学生が聖職に就けるように、学費免除で教育を受けさせる学校。
卒業後は金沢の公立中学に行くはずだったのですが、学校側の事情で、急遽私立の灘中学を薦められ灘での教師生活がスタートします。しかし、灘に赴任して数年、橋本さんはある思いを胸に抱いていたといいます。「生徒にどれだけ自分のやっていることが伝わっているのだろうか。逆に自分が中学生だったときに、先生からどれだけの物を教えてもらったか...。先生自身に対する親しみはあっても、授業の中で、このテキストでこんなことを教えられたなどというのが全然でてこない。いくら自分が一所懸命になっても、生徒の記憶には残らない。卒業したら真っ白になってしまうんだ。そんなことをこれからも毎日毎日繰り返しやっていかなくちゃいけないのか」と。
その後、転機は訪れます。昭和20年、敗戦後の日本では授業再開前にまず教科書の"黒塗り"をさせられたそうです。当時、橋本さんが授業で使用していた中学2年生の国語の教科書の3分の2が"国家主義・戦意昂揚を促進する"とみなされ使用不可になってしまったといいます。「教科書は薄くなるし、紙は悪いし、開けた途端に塗りつぶし、こんなものは教科書に使えない。その時に私は、はっきり決めたんです。『銀の匙』を使って中学3年間で、1冊を読みあげる授業をする」と。
『銀の匙』を選んだ理由を尋ねると「『銀の匙』は、中勘助の先生である夏目漱石が"これは、非常に綺麗な日本語だ"といって絶賛しているんですよ。日本人として、誰知らぬ人がいない大文豪の夏目漱石推薦の文章だから、国語の教材にして文句の出ようがない。そして新聞連載だから、一つ一つの文章の長さが、長からず、短かからずでちょうどいい。それともう一つは、各章に題がついていない。一、二、三と番号が付いているだけ。だから、各章を読み終えた後に自ら題を考え、表題を付けることができる。それに、内容といえば、ひ弱な男の子が好青年へ育っていく。その経過を中学生に当てはめて、生徒が自分と重ねて考えることもできる。自分もこういうことあったなぁとか、自分はこうじゃなかったなと。つまり、内容に溶け込みやすい」といった理由だそうです。
橋本さんは、生涯生徒の心に残る、そして、人生の糧になるようなテキストで授業をやりたい。また、押し付けではなく、生徒が自分の興味を掘り起こして入り込んでいくためには、主人公になりきって読んでいくことが必要だと考えたといいます。それは、橋本さんが小学校の時に経験した"追体験"により、遊びながら学んで行く楽しさを生徒に知ってもらいたいという思いがあったからだといいます。しかし、橋本さんは、その一方で、「結果が出なかったら責任はとる。これは決めていました」と心の内を話してくださいました。
好きだからやれた
しかし、『銀の匙』を教科書に決めたからといって、簡単にできるものではないといいます。「教科書指導要録というのがあるんですよ。この章は時間配当何時間でやりなさい。こういうところが重要だから、こういうところに重点をおいて教えなさいって、そういう細かい指示がしてあって、だから、その教科書導要録を見ていたら、今日の授業ができるんですよ。でも、そういうものがなければ『銀の匙』を教材にするっていっても、どう使ったらいいのかわからない。自分でこの指導要録を作らなくちゃならないんです。だから1年間かかって、"銀の匙研究ノート"を作って、この文章の題はこうだ。内容はこんなことがこんな順序で書かれている。それから、夏目漱石が推薦した美しい日本語が書いてあるところはどこだって。じゃ、そんな言葉を使って、他にどんな表現ができるだろうか。とか言葉の意味だとか、そういうのを調べて作っていました」と橋本さん。
授業の際に使うのは、『銀の匙』と橋本さんが毎回生徒に配るプリント。このプリントはヤスリ板の上に蝋紙を乗せて、一字一字ガリガリと削るそうです。プリントを1枚作るのにも大変な時間がかかり、その作業が身についてしまい、筆でサラサラと文字がかけず、未だにボールペンでも力を入れた角ばった文字しか書けないと言います。
橋本さんが苦労して作ったプリントは、生徒が抱くであろう疑問に答える形で作成しており、『銀の匙』を読み解く上での手助けとなります。毎回、その刷り上がったばかりのプリントを両手いっぱいに抱えて教室に入ると、クラス全員から拍手喝采で迎えられることもあったといいます。しかし、その裏での苦労は計り知れません。学校で遅くまで作業をし、終わらなければ家に持ち帰り朝方まで作業に時間を費やす。その他にも、資料を作るために、自ら莫大な量の本を購入したといいます。しかし、橋本さんは、「自分が好きだからやれた。やりたいと思ったからやれた。"教科書指導要録を基に上からこう進めろ"って、いわゆる教育労働者的なものだったら、とてもじゃないけどやれませんよ。夜中の2時3時までかかろうと、好きだからやれたし、お金を使うことにも何の抵抗もなかった」と語ります。
※実際に授業で使われたプリントをまとめたもの
それを支えていたのは、灘の自由な校風にもあるといいます。新任当初の橋本さんに「この学校を日本一の学校にしたいと考えている」と挨拶した校長の存在もまた大きかったとおっしゃいます。校長先生は、高等師範学校新卒で21歳の橋本さんを"先生も10年もしなくちゃ一人前にはなれないんだ"とだけいって後は、ああしろ、こうしろと細かい指図は一度もせず、影で見守り続けたと言います。「私をよく見ててくれて、任せてくれた。それだけ太っ腹な人だったんだと今になってわかる。」と橋本さん。
橋本さんの『銀の匙』の授業では、主人公の少年が駄菓子を食べるシーンがあれば、神戸のデパートの地下を回ったり、仙台の専門店に手紙で問い合わせをして、『銀の匙』の当時に近いお菓子を人数分集める。また、凧揚げのシーンがあれば、美術の時間を借りて凧を作り、実際に揚げてみる。文中にわからない言葉があれば、その語源を調べたり、その言葉に関連する単語を調べて視野を広げて行く等、本の中の言葉一つから横道にそれていく。そして、主人公の見解や感情を追体験していく授業だったといいます。その遊びのような授業で、どのように生徒は自ら成長をしていったのか――。後編では、橋本さんの教育についての考え方をお伺いしました。
インタビュー後記
伝説の教師と言われる橋本さんとお会いしお話をお伺いすると、99歳になった今でも、趣味も多く、怒った出来事と一つ一つに興味を持ち学んでいるということに驚かされます。
そのきっかけは、小学生の時の追体験にあるといいます。(本文参照)つまり、学ぶことの一番重要なことは、その事柄に自ら興味を持つことだと。
人は興味を持つことから、その事を深く調べ、学ぶことができます。
橋本さんのお話からは、学ぶということは、勉強だけからではなく、世の中の動き、人の感情・考えを受信することで無限に、また日々出来ることなのだと感じました。
忙しい毎日、日々の業務に追われがちですが、常にアンテナを立てる意識をすることで、学ぶチャンスが得られるのだと改めて思いました。
*続きは後編でどうぞ。
第四回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】 教育とは、生徒の能力を引き出すこと
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有限会社 ビッグイシュー日本
東京事務所マネージャー 佐野未来さん
現在日本では、国や行政だけでは解決できない・手が回らない問題、例えば少子高齢化や介護、健康、就労や環境問題などが山積しています。しかし、それらを、ビジネスの手法を使って新たな価値を創造し、革新的なアプローチで解決していく活動(ソーシャル・イノベーション)の考えが少しずつ広まりつつあります。今回お話を伺った有限会社ビッグイシュー日本は、まさに、国が抱える問題の一つでもありますホームレス問題の根本的な解決しようと、2002年に立ち上がった企業です。ホームレスの自立支援を始めたきっかけと実際の仕組みについて東京事務所マネージャー佐野未来さんにお話をお伺いしました。(聞き手:OBT協会 伊藤みづほ)
ビッグイシュー (http://www.bigissue.jp/)
1991年に英国で始まり、日本では2003年9月に『ビッグイシュー日本版』が創刊。ホームレスの救済(チャリティ)ではなく、仕事を提供し自立を応援する。(定価300円の雑誌をホームレスである販売者が路上で売り、160円が彼らの収入となる。貯めたお金で、住居と住所を確保し、定職を探す)販売者は、現在ホームレスか、あるいは自分の住まいを持たない人々。しかし、住まいを得ることは単にホームレス状態から抜け出す第1歩に過ぎず。販売により住まいを得た後も、必要な場合にはビッグイシューの販売を認めている。
ソーシャル・イノベーションは同じ思いを持つ者から生まれる
────1991年にロンドンからスタートしたと伺っておりますが、日本での立ち上げの経緯を教えていただけませんでしょうか。
今、共同代表でもあり、編集長をしております水越が、2002年にシュワブ財団(※)で、表彰された40人の社会的企業家を紹介したある雑誌の特集の中で、たまたまビッグイシュー・スコットランド版の創設者のメル・ヤングさんの紹介記事を目に留めまして、スコットランドに飛んで、その方にお話を伺ったというのがきっかけですね。ちょうどその頃、日本ではホームレス問題が大きな問題になりつつある時で、大阪は一番ホームレスの方が多い街なんですけれども、そこに暮らす一市民として、"どうしてこの人達がここに寝なくちゃいけないんだ"と。同じような意識は多分みんなあって、何かできないかと考えていた時だと思うんですね。
(※)シュワブ財団=非営利、独立、中立の組織。社会起業家精神を高揚し、社会のイノベーションと進歩のための重要なカタリスト(触媒)として社会起業家を育成するために、1998年に創立された。
────元々皆さん、そういった活動をされていたのでしょうか。
立ち上げたのは、水越と今代表をしている私の父と私の3人なのですが、3人ともそれまでホームレス支援に関わったことはありませんでした。
父は、都市計画のコンサルをしていたので、ホームレスっていうのは、都市問題じゃないですか。失業などで職を求めて都市にやってきた方々が仕事が見つからず、路上にでる。都市を作るコンサルティングをしているものとして、一番難しい問題ですが、すごく大事な問題だと感じていたらしいですで。どんどん広がっている現状に気にはなっていたとは言っていますね。私も、私一人では無理ですが、なにか出来ることはないのかと思っていて、それぞれの立場でその光景を見て、疑問に感じていたというところはあります。
────今までのホームレス支援とビッグイシューの考え方の違いはどういったものだったのでしょうか。
その当時のホームレス支援活動といったら、炊き出しとか、夜回りが主なんですが、今もそうですけれども、炊き出しやいろいろな方の寄付をいただきながら手弁当で活動するのはやってる人に負担が大きいですよね。その人が疲れてしまって続かなくなってしまったりということもある。そうなるとホームレスの人達はどうなってしまうんだろうって...。だから、構造的に続けていける仕組みが必要だろうと感じていました。しかも、路上生活を日々余儀なくされている人たちにとって、今日生きのびるためのこういった支援はなくてはならないものなんですが、次につながる、つまり路上から抜け出すことができるチャンスをつかむことができる、「明日につながる支援」の形が素敵だなと思いました。組織としてのビッグイシューはビジネスとしてちゃんと利益を上げられる仕組みで、しかも結果をだすことがさらなる支援にもつながる、という仕組みでして、すごく面白いなと。
────今までの支援の仕方とは違う、新たなやり方を取り入れるにあたっては、リスクもあったかと思いますが、実際に苦労されたこととは、どのようなことでしょうか。
お金も大変でしたが、なによりも前例のない路上での販売に対する市民の支持をいかに得てゆくか、というところが苦心しました。やはり、始めるまでは市民の皆さんが実際に雑誌を買ってくれるだろうか、とか不安はありましたから。
ふたを開けてみると、販売者さんたちの心をこめた挨拶や対応に「元気をもらった」とか「感動した」という言葉をたくさんいただき、応援してくださる方が徐々に増えていった感じです。
それから、創刊時にたくさんのメディアに取り上げていただいたことも追い風でした。2003年9月に大阪で立ち上げたのですが、丁度、阪神タイガースが18年ぶりに優勝した年なんです。優勝が決まったのは9月15日。ビッグイシューは9月11日大阪で創刊したのですが、阪神タイガース優勝の瞬間をニュースにするために全国からメディアの方が集まってらして、今か今かと準備をして待っているんですが、なかなか優勝しない。そんな合間をぬってビッグイシューが創刊し、ニュースや新聞、雑誌などで取り上げていただきました。
ホームレスに仕事を提供するために、企業としてすべきこと
────現在、NPO団体と有限会社の両輪で事業をされておりますが、どういったお考えからなのでしょうか。
NPOの場合というのは、解決したい問題・変えたいことがあって、これがこうあるべき!というゴールがありますよね。そこに向かって理念を達成するために活動をやっていく。儲かる儲からないは二の次、いわば理念主導です。まぁ会社も理念のもとに経営があるのですが事業性が重視される。ビッグイシューは失業などでホームレスになった方に、仕事という機会を作ることで、当事者の方が自分の問題解決をするチャンスを提供する、それがホームレス問題の解決につながるという仕組みです。これは、雑誌が売れなければ仕事にはならない。売れる雑誌を月2回発行し続けるにはお客様の反応を感じながら企画を考えたり、販売計画を立てたり、その計画を常に変更できる柔軟さとスピードが求められます。この表紙は売れなかったとか、この内容じゃダメだとか、例えば、5万部刷ってみたけど足りない。次は6万にしようとか。今回は少なめに3万にしようとか。
有限会社ビッグイシューは出版社なんです。会社として一番大事なことは、やはり、商品価値のあるものを作ることだと思っています。販売者の方が誇りを持って売れるもの。お客様が、書店では買えない、ホームレスである販売者の人からしか買えない、でもその本を買い続けたい、読み続けたいからその人の元へ足を運ぶ。そういう媒体としての質の高い商品でなければ、これはただの寄付になってしまいますよね。そうなると「与えつづける側」「与えつづけられる側」の関係になってしまいます。対等でない、一方的な関係はなかなか続かないと思うんです。
でも、ホームレス状態にいったんなってしまった方々は路上生活が長引けば長引くほど、ほんとうに多くの問題を抱えています。仕事を得て、収入を手にしたからといってすぐに路上生活を抜け出せるかというと、そんなに簡単ではなかった。健康や法律の問題、福祉の問題といった多様な問題に対応するためには、私たちだけでは難しくて、多くの市民や団体、企業、行政といったより多くの人たちとのつながりの中でしか支援できないことがたくさんありました。NPOは理念の実現のために、協力したい市民と行政、企業などを結びつけて社会を変えてゆくことができる。また、多くの人が協力し結びつくことで、非常に大きく困難と思える問題の解決にも取り組むことができると思っています。
────私も購読していますが、内容はかなり読み応えがありますよね。ダライ・ラマさんのインタビュー記事とか。表紙も著名な方が出ていらっしゃいますよね。こういった方は、ビッグイシューの考え方に共鳴している方々なのでしょうか。
そうですね。創刊当初は、半分ぐらいは翻訳記事だったんですね。イギリスのビッグイシューから助けてもらい、記事の提供を受けて雑誌を作ってきたんですけれども、日本独自の記事が増やせるようになりまして、今は9割近くが、日本独自の記事ですね。ダライ・ラマさんは、日本で取材させていただきました。
表紙に関しても、PRの媒体の一つにビッグイシューが有効なものだと選んでいただけるようになったってことは、それだけ社会的な地位ができてきたのかなと思っています。
イギリスのロンドンで発行している本家『ビッグイシュー』は週刊ですが、毎号10万部以上売れる、雑誌といえばトップテンに入るくらい認知されている雑誌なんですよ。
2009.3.1号 オバマ大統領(左) 創刊号と最新号&表紙を飾ったアニメ(右)
仕事とは、平等を作るための一番有効なツール
────最近は、ホームレスの若年齢化が目立っており、販売者の平均年齢がリーマン・ショックを挟む2年間で56歳から45歳へと11歳も若くなったとお聞きしていますが。
リーマン・ショックの後から若い方が非常に増えてきました。大きな原因は労働者派遣法の改正による規制緩和で非正規雇用が増える一方で、それにみあった社会保障のしくみを作ってこなかったことだと思います。そこに、世界同時不況が来て工場の仕事や寮で住みながら通ってるみたいな人たちが一気に雇い止めにあった。収入を失い、仕事が長期間見つからなければ、最終的に路上生活を余儀なくされるという現状があります。私は派遣労働や労働市場のの自由化は全面的に反対ではないですけれども、今までの、企業に入ったら一生安泰、終身雇用、何かあったら家族が介護する・家族が支える、といった企業と家族が福祉的部分を支えるという仕組みが役に立たなくなったとき、それに変わるセーフティネットとなるあたらしい仕組みをつくる必要があると思います。
────そうですね。仕事をなくし、また、一人身世帯が進み家族間、そして人との絆が薄れていく状況下で、孤独を感じている方も多くいらっしゃると思います。
『Work is the greatest equalizer』という言葉があるんですけれども、仕事と言うのは平等を作るための一番有効なツールであるって。まさにそうだなっと思います。仕事は社会参加のツールなんですよね。
────ビッグイシューさんのHPでポープレスからホームレスになると書かれていました。しかし、お話を伺っているとビッグイシューの販売者の方々は、ホープレスではないですよね。
そうですね。販売者さんたちは私達がびっくりするほど明るいですよ。一日中、暑い時も寒い時も雨の日も決められた場所に立っていなくてはいけないので、大変な仕事だとは思うんですけれども、皆さん、お客様が待っているから休めないっておっしゃいますね。
一旦希望を失って路上に出てしまったんですけれども、ビッグイシューを販売することで、お客様から支えられて生きる希望を取り戻したし、更に次のステップに向けて前に踏み出そうとしている人たちだと思います。社会の中で生きていけるという希望を持てるってことが、人にとって何よりも大事なんだろうなと思います。そういう意味で、何度でもチャレンジできる、次に繋がるチャンスが多ければ多いほど、社会って豊かだし、誰にとっても生きやすい社会だと思うんですよね。ビッグイシューはそんな仕組みの一つだと思いますし、ビッグイシュー以外の仕組みがもっともっとあるといいと思うんです。
これからのビジネスのあり方とは
────今後、これからのビジネスのあり方・企業のあり方の定義が変わっていくと思いますし、豊かさの定義も変わってくると思います。
はじめ立ち上げた時は、本当にシンプルに、仕事を作れば解決するんじゃないかなって考えていたんです。でも、やればやるほど問題の根の深さとか...。コツコツ貯めても保証人がいなくてアパートに入れないとか、アパートを貸してくれる人がいないとか、銀行の口座を持っていないから、タンス貯金じゃないですけれども、ポケット貯金して、全部盗まれちゃったとか。お金が無くて、住民票売ってくれって言われて売ったらなんか知らないうちに借金が何百万もあったとか、それが住所設定して初めて分かったとか、依存症の問題とか。本当に様々なことがあるわけですよ。仕事だけじゃない、特に路上生活が長くなればなるほど、いろんなことに巻き込またり、健康を害されている方が殆どですし、そんなにシンプルじゃなくて。ずっとホームレス支援をなさっている方って、その大変さも知っているので、だから、なかなかビッグイシューが日本で始まらなかったのかな、逆に私たちは知らなかったから、始められたのかなって思います(笑)
────そういった状況でも続けて来られている理由はどういったことなのでしょうか。
うーん、ビッグイシューの販売者さんですかね。本当に、こんな人がホームレスなるなら、自分だっていつなってもおかしくないって考えさらせる人、たくさんいるんです。働きたくても働けない人たちもたくさん。そんな人たちを社会のお荷物にするのか、財産にするのか、ちょっとしたきっかけで結果は180度変わるんですね。一見、回り道で、その時はコスト高に思えても、ひとりの人が社会にとって生涯重荷となるのか、財産となるのかは、長い目でみると社会的な負担という面でも大きな違いを生みます。そのことがやってみて初めて見えたっていうか、すごく腑に落ちたというか。
それに、ずっとホームレスの方々を支援してきたNPOさんの協力もそうですし、行政も、そして、応援したいという企業や市民の方も増えてきています。そういった方々の存在にも励まされています。
────そうですね。他人事ではないと思います。
この状態を放置するのではなく、ホームレスのような状態になることを、なんとか止められるような仕組みを作っていかなくてはいけない。多くの人を巻き込んで人がホームレスにならない社会へと変えていく、そのためにNPOビッグイシュー基金が市民の一人ひとりがこの社会をつくる当事者として考え関わっていただけるような機会や情報の提供をおこなっていきたいと考えています。
企業ってグローバル化する前までは、社会にある程度責任を持たざるを得ないというか、そこの地域でビジネスをするからには地域と一緒に生きてかなきゃという意識があったと思うんですよね。日本の企業にはそういった創業の理念を持っているところも多い。組織として活動し、社会を良くしながら、収益を上げていけるのは理想の形だと思いますし、可能だと思うんです。持続可能な仕組み、また、営業活動すること自体が社会にとってプラスになっていくというような会社がどんどん増えれば増える程、日本の社会はもっと素敵で豊かになると私は思っていますし、そういうふうな意識を共有できるモデルの一つにビッグイシューがなってゆければいいなと思います。今は、経営的にはギリギリですけれどもね(笑)
────ビッグイシューさんのお取組みを伺って、これからの企業は自社の利益だけではなく、社会の問題に目を向ける必要があり、また、社会的コストを背負うことが重要だと改めて感じました。貴重なお話をありがとうございました。
インタビュー後記
社会問題解決への鍵となる、仕組みの一つを創り上げつつあるビッグイシュー日本さんですが、いろいろとお話をお伺いすると編集の方はたったの4人。少数精鋭で販売者さんが自信を持って売れる雑誌を作りたいと月2回の発売日に合わせギリギリで回していると状態だといいます。
雑誌のボリューム・内容からしても、その人数の少なさに非常に驚かされましたが、なにより、インタビュー後に事務所を拝見させていただくと、皆さん大変な状態にも関わらず、生き生きと仕事をしていました。
以前、他のインタビューで「人間の究極の幸せは人に愛されること、人に褒められること、人の役に立つこと、人から必要とされること」とお話を伺ったことがあります。
現在、ビッグイシューさんでは販売者の方にとって、生活の上でも、精神的な部分でも無くてはならない存在になりつつあり、また、有限会社ビッグイシューは、販売者さんがパートナーとして大切な存在になっています。
お互いがお互いを必要とし、また感謝する関係が成り立つ社会。お互いがお互いを必要とするのは、一般的な需要と供給の関係ではありますが、ビッグイシューさんの場合は、そこに感謝の思いが加わります。その感謝の気持ちこそがお互いの原動力となる。
ビッグイシューさんのインタビューから、『人の役に立っているということを実感出来る』ということは仕事のやりがいに、大きな影響を与えているということを改めて感じました。
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日本最高齢声楽家
相愛大学名誉教授
嘉納 愛子さん(104歳)
"全国の100歳以上の高齢者が2011年9月15日時点で4万7,756人となり、41年連続で過去最多を更新する見通しとなっています。その中で全体の87.1%を占めているのが女性。今回お話をお伺いさせていただいた嘉納さんは104歳で声楽家。とてもお元気で、またユーモア溢れる女性です。取材当日は喉を痛めていた為に、歌声を聴かせて頂くことは出来ませんでしたが、ピアノを弾いてもらうと一変。ピアノに向かう姿からは、音楽に対する思い・考えがひしひしと伝わり、年齢を全く感じさせませんでした。
【プロフィール】
嘉納 愛子(AIKO KANOU)
1907年大阪生まれ。声楽家・音楽指導者。東京音楽学校(現在の東京藝術大学<声楽本科>)を卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となる。結婚後、音楽活動を休止するが、相愛女子専門学校(現相愛大学)からの依頼があり、音楽家の講師(のちに教授)として音楽教育に携わる。また、自宅での少人数レッスンを続けている。
人生は公平
いつから音楽が好きだったんですか?と嘉納さんに質問したとこと、「物心ついた時からね。だから、歌を好きに産んでくれた両親に感謝だと思っています」と答えてくださいました。嘉納さんは「本当に幸せな人生です。だから、もし、20歳に戻れたら何しますか。っていわれても、ずっと幸せだったから、戻りたくないの」と語ります。
嘉納さんは、27歳の時に山田耕筰氏の支援者だった、灘の酒造家(菊正宗)の四男の嘉納鉄夫さんと結婚。しかし、御影にある嘉納家といえば指折りの旧家、"歌を歌ってお金を稼ぐことなんて、はしたないことだ"といわれ、蔵にピアノを入れられてしまったそうです。そこから、音楽とはまったく離れた生活に入ります。しかし、翌年には男子を出産。また、旧家だったため、人の出入りが多く、毎日がお正月のようだったといいます。朝起きたら髪結いさんが一番最初に来て髪を結ってくれる。そして、次は商売人が来る。お菓子屋さんや魚屋さん、それから呉服屋さんも来て、着物を選ぶ。その為、戦争中も何一つも物に不自由しなかったそうです。「そんな生活だから歌いたいと思ってなかったの」と嘉納さん。また、1945年6月10日の空襲では家が全て焼けてしまいます。「その時も不思議と悲しいと思わなかったわ。まわりもみんな焼けていたから」。その後、大阪近くの田舎に疎開し、終戦の翌年に御影に戻ってくることになります。しかし、その数日後、小学生になった息子さんが朝に高熱を出し、夕方に亡くなってしまったそうです。「心は虚ろになり、何も考えられない状態でした。それで2~3年は何もしないで、ボケ~としてました。そしてね、ある夜、真っ暗で何にもない、御影の綺麗な砂浜で歩いていたの。誰もいないと思って、思いっきり淡路まで聞こえるような声で、歌うんじゃなくて、叫んだの。そしたら、樽屋のおじさんが、見てたみたいで、『なんや、夜叫んでたで』って評判になって。それを主人が聞いて、『あ~歌いたいんだなぁ』って、それで大阪に家建ててくれて、『教育ならばよろし』っていって。また、歌を歌えることになったの。その後、すぐ相愛女子専門学校(現相愛大学)の学長から『声楽を教えてくれませんか』と声をかけていただいたんです。本当に嬉しかったわ」と、嘉納さん。
その後、約60年以上もの間、声楽家として活躍されている嘉納さん。「私の人生は恵みの人生。感謝ばかりです。人から頼りにされるってことは本当に幸せなことよ。だから、私は本当に幸せ。何の苦労もしていません。ただ、子どもを亡くしたことは本当に大きなマイナスなの。そう考えると、『人生は公平ね』このことははっきりいえます」。
辛い過去を語ってくださった嘉納さんですが、悲しみを決して表には出しません。 「いつかのテレビで、色紙に座右の銘を書いて下さいと言われたとき、私は"感謝"って書きました。それ以外には言葉はありません。ただ、やっぱり、こう思うようになったのは60~70歳くらいかしら。だから、みんな100まで生きないとダメね(笑)」。嘉納さんからは、どんな出来事があろうと、きちんと全てを受け入れ、前に進んで行く強い力を感じます。また、"幸せな人生だった。感謝"の裏には、人には見せない努力の姿、悲しみを超え、精一杯生きた。という自らの思いがあるからなのではないかと感じます。
欲張りじゃないとダメ
嘉納さんは「私は、明日さよならしてもいいです。悔いはありません。それだけ幸せな人生でしたから」と語ります。しかし、その一方でご自身のことを「私は、"見たい・聞きたい・寝たい・食べたい・歌いたい"のたいたいばあさんなの」といいます。「欲張りですからね。最近、開き直ってます。おんなじ生きるんならギネスに載ってやろうと。114歳まで。でも、しわくちゃは嫌なの。だから、しわが寄らないようにしてるのよ。化粧品使って。最期まで、しわくちゃにはなりたくないもの」と。嘉納さんは104歳という年齢が嘘のように、肌がきめ細かく、非常にお洒落でした。お話を伺うと、毎日自ら服を選び、ワンピースを切って、マフラーにするなど、自分で裁縫をすることもあるそうです。また、嘉納さんは104歳になった今でもネイルケアを自ら行うそうです。
「私は、やりたいことが、いっぱいあるのよ。いつまでも綺麗でいたいし、オシャレでいたい。これもしたい。あれもしたいって。だから、毎日忙しいの。でも、欲張りって大事なことだと思うわよ。欲がなくなったらダメね」と嘉納さん。
嘉納さんとお話をしていて、感じることは、とてもユーモアがあること。 最近書いたという俳句を見せていただくと『老人太り、三途の川は乗船拒否』また、九十九歳の時に作った俳句では『振り返り、苦労ないんないん。白寿道』。「無い無いと99(ナインナイン)をかけてみたの(笑)。でも、本当に辛かったことも今では、みんないい思い出でね。」とって語ってくださいました。
今まで、音楽をやってきて、辛かった経験はあるんですか?と質問したところ「ありますあります。思うように声がでなくて、しょぼくれていました。でも、負けん気で、カバーね」と。自身の歌の点数をお伺いすると。「点なんて付けられないわ。もっともっと上手に歌えると思うの。欲張りだから。限度はありません。これはお医者さんから聞いたんだけど、声帯は老化しないんですって。だから、もっとうまく歌えるはず」。嘉納さんはこうなりたいという思いが強く、年齢で妥協することはなく、プロセスを楽しめる人。そんな印象を受けました。嘉納さんは、自分の歌に納得したことは一度もないと語ります。もっと、上手くなりたいという強い気持ちが、今でも変わることなくあります。
現在の若い人たちの中には"簡単に物事を諦めたり、目標がない"という人が多くいます。嘉納さんに質問をすると「日本人は、もっとしっかりしないと。いつから、こんな風になってしまったのかしら。若い人が強くならなくちゃダメね。」と喝を入れられました。「今の子たちは、ずっといろんな物を与えられてきたから。自ら求めないからじゃないかしら。やっぱり欲張りじゃないと。ぼんやり口を開いていても楽しい事なんて、向こうからやってくるものではありません。だから、自ら少しでも興味を持ったら、一途にやってみることね。本気でやっていれば、いつか誰かが"いいところ"を引き出してくれると思うの。人生は公平だから。だから、日本を沈没させないためにも頑張りなさい。そして、100まで生きなさい(笑)。」と。
もうすぐ105歳になられるという嘉納さんは、お話を語って下さっている時も常に楽しそうでした。
嘉納さんからみた長寿の秘訣は、オシャレであること。欲張りであること。ユーモアを忘れないこと。そして、自分の一番好きなことをやり続けられること。なのではないかと感じました。インタビュー後記
自らの人生を振り返り"幸せな人生だった"と笑顔で語る嘉納さん。
幸せの感じ方は人それぞれだと思いますが、嘉納さんのように、今まで生きてきた道に悔いはない、といえる人はどれほどいるのでしょうか。
幸せだった嘉納さんの人生にも、言葉にはださない辛い経験やさまざまな苦しい思いもあったかと思います。
しかし、嘉納さんからは、それを懸命に乗り越えた、また乗り越えたいという、強い思いのようなものも感じました。
まさしく、〝幸せは、人から与えられるものではなく、自ら掴み取るもの〟であり、心の置き方一つで、幸不幸は変わってくるのだと思います。
嘉納さんの語る"たいたい"の気持ちが幸せを掴む重要な考え方なのだと改めて感じました。
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日本最高齢声楽家
相愛大学名誉教授
嘉納 愛子さん(104歳)
"全国の100歳以上の高齢者が2011年9月15日時点で4万7,756人となり、41年連続で過去最多を更新する見通しとなっています。その中で全体の87.1%を占めているのが女性。今回お話をお伺いさせていただいた嘉納さんは104歳で声楽家。とてもお元気で、またユーモア溢れる女性です。取材当日は喉を痛めていた為に、歌声を聴かせて頂くことは出来ませんでしたが、ピアノを弾いてもらうと一変。ピアノに向かう姿からは、音楽に対する思い・考えがひしひしと伝わり、年齢を全く感じさせませんでした。
【プロフィール】
嘉納 愛子(AIKO KANOU)
1907年大阪生まれ。声楽家・音楽指導者。東京音楽学校(現在の東京藝術大学<声楽本科>)を卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となる。結婚後、音楽活動を休止するが、相愛女子専門学校(現相愛大学)からの依頼があり、音楽家の講師(のちに教授)として音楽教育に携わる。また、自宅での少人数レッスンを続けている。
何か一途になるといい
嘉納さんの若いころは、女性の習い事と言えばお琴。また、演劇といえば仕舞・謡曲(*)の時代。しかし、嘉納さんは「西洋音楽がやりたい!」と一途に意思を貫き、大学行きを反対していた両親を「音楽学校を受けさせてくれなかったら死にます。」と脅し、当時、難関だった東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験。見事合格をしたそうです。親元を離れての寮生活では、「私は朝寝坊でしたから、寮長さんがお味噌汁の実がなくなるから早くいきなさい、お布団畳んであげるから、って毎日いわれてました」と。でも、その一方では、音楽学校での嘉納さんはレッスンが終わっても、また別のレッスン。と音楽に対して猛勉強の日々。「あれもできる、これもできる。ではなく、何か一つに一生懸命になった方がいいわね。私は、小さい頃から歌が好きだったの」と嘉納さん。
歌が好きで、上手になりたくて必死だった。だけど、将来、有名になりたいとか、歌で食べてい行きたいとは全く思っていなかったそうです。「歌が上手に歌えるようになって行くのが楽しかったのよね」と。
(*) 仕舞=能の一部を素で舞うこと。能における略式上演形態の一種。
謡曲=能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。現在、嘉納さんのもとには、"子どもに音楽を学ばせたい"とやってくる親御さんがたくさんいるそうです。そんな方々に嘉納さんは必ず『将来は専門家にしたいの?』と聞くそうです。嘉納さんは語ります。「頭角を出すには、元々いいものを持ってるか、高度な頭を持っているかね。まずは、ある程度は素質を持っていなかったら伸びません。私は、どんな子でもすぐには断りません。半年は教えますよ。そうすると、ぐんぐん伸びる子もいます。初めからエクスプレッションを持っている子、そういう子は伸びます。それは感じるの。それから、癖がない子、今は何もないけど、餌上げたら、立派に育つ子、そういう子はやっぱりわかりますね。そういう子は伸ばします。それじゃなく、半年で何も伸びない子もいます。そういう子には『あなたフルートいったらどう?』って。声楽もフルートも腹式呼吸だから一緒なの。お金をたくさん出したら金管楽器はいい音しますよ。私は、はっきりいってあげるの。それが、その人のためだから。あとは、才能のある子は、卒業したら外国に行った方がいいわね。プロになるっていうのは生易しいものではないです」と嘉納さん。
山田耕筰先生との出会い
嘉納さんの学生時代はというと、覚えることがたくさんあり、それを一つずつマスターし、前回よりも歌がうまくなったと自ら感じられることが幸せだったそうです。しかし、音楽学校で教えてもらえるのは基礎の基礎。"もっと上手になりたい"と、昭和3年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業してからは学校では習えなかった勉強をしようと山田耕筰氏に弟子入りをします。当時の山田耕筰氏は三菱財閥の総帥岩崎小弥太氏の援助を受けてベルリン音楽学校の作曲科へ留学。帰国後、近衞秀麿氏らとNHK交響楽団の前身、日本交響楽協会を設立するなど活躍していました。嘉納さんは、その後、山田耕筰氏が確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれることとなります。
山田耕筰氏からはたくさんのことを教わったと語って下さいましたが、一番勉強になったことは『歌を歌う時には話をしなさい。そして、歌詞をよく理解しなさい』っということだといいます。詩には、その短い文章の中に作詞家の思いがたくさん詰められているといいます。曲を作る作曲家はその詩を何回も何回も読み直し、イメージを膨らませて音として表現していくそうです。その為、伴奏は詩の心の動き、外の風景の音、空気の動きを表現してといわれています。
「歌は、哲学です。20代の時に読んだ詩と、今読んだ時では、詩の感じ方が違うはず。だから、表現の仕方(歌い方)が変わってくるの。だから、歌は面白いんです。私もそれはのちに感じたの。だから、歌詞の理解は重要。若い頃は声の出し方が難しいって思っていたけど違うの。本当に難しいのは、声一つで聞き手の人に絵を描かせることができるかどうか。歌は"叙事"の部分と"抒情"の部分それが混ざって出てきます。声楽を研究した人じゃないとわからない。そこが難しいの。からたちの花(*1)も山田耕筰先生の曲は2000,3000あるけど、からたちが一番"叙事"と"抒情"(*2)のバランスが難しいっていいます。声が出ないとき、叙事がでても抒情がでません。だから、私は挑戦してるわけなのよ」。嘉納さんからは、山田耕筰氏を敬い・慕う気持ちが伝わってきます。
(*1): からたちの花=北原白秋作詞、山田耕筰作曲の日本の歌曲。
(*2): 叙事=事実をありのままに述べ表すこと。
抒情=自分の感情を述べ表すこと。
現在は、相愛大学の名誉教授となっておられる嘉納さんですが、生徒に音楽を教えるときのコツを伺うと「さっきもいったけど、歌詞を理解しなさいっということと、声の訓練ね。学生さんは声を出すのが大変で、その声は腹筋を使えないと出ないの。だから、声を出す訓練をしてあげます。それには私が伴奏を弾いてあげること。初めにピアノの鍵盤の白い部分だけで引いて、次に黒い鍵盤だけを弾いて、また、白い鍵盤だけで次は一オクターブ高い音の出る白い鍵盤部分で弾いてあげるの。それを伴奏で弾いてね。どんどん声をださせてあげるのよ。自然と出せるようになるように。だから、歌の先生はピアノが弾けなくちゃだめ。今は、弾けない人もいるのよね。でも、バイオリンでも作曲でもピアノが土台ですから、これを勉強しないと。最近は、よく理解しないで、歌を歌ったり、作曲する人がいる多いの。悲しいことだわ。」
嘉納さんのお話を伺っていて感じることは、全てにおいて基本が大事ということです。 また、素質と感性の豊かさ、そして、一途になって自ら学ぶ意欲。声楽家は"いい声だな~"だけではなれないと嘉納さんは語ります。「頭を使って、いろいろ覚えたり、考えたりと、広くそして深く勉強しないといけません」と。また、バイオリンやピアノは勉強した人がいい楽器、バイオリンでいうなればストラディバリウスを使えば、素晴らしい音が出ます。でも、「声は物じゃ出ないから、本当難しいのよね。」と嘉納さん。後編は嘉納さんの人生観についてお話をお伺いしました。
取材を終えて・・・
60年以上声楽家として、活動を続けられてきた嘉納さん。
なぜ、こんなにも長いあいだ、飽きることなく一つの事に打ち込むことが出来たのでしょうか。
嘉納さんは語ります"もっと上手くなりたいから"と。
始めたころは、いろいろ覚えることや発見が次々と出てきます。
しかし、何度も繰り返すうちに「刺激への慣れ」がおこり、感動が薄れて行くといわれています。
嘉納さんの場合は、今現在も感動や日々の発見を楽しんでいるように感じました。
それは、音楽は勿論のこと、それ以外にもファッショントレンドに至るまで
様々な情報を捉えています。つまり、常に物を感じる感性のアンテナを立てているのです。
新たな情報が入ってこなければ、新たな考えも、感情も生まれません。
『いつまでも感性を尖らせておくこと』
そのことが、自らを成長しさせ、また飽きずに向き合うことができる
条件の一つなのかもしれません。
*続きは後編でどうぞ。
第三回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】私は"たいたいばあさん"なんです
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