OBT 人財マガジン

2012.10.10 : VOL149 UPDATED

人が育つを考察する

  • 第六回【成長の瞬間】諦めなければ夢は叶う‐前編 

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      元Jリーガー
      摂津総合法律事務所
      弁護士 八十 祐治さん

      "育つ人と育たない人"の差は何なのか?第6回目を迎える【成長の瞬間】にご登場いただくのは、Jリーガーから弁護士へという異色の経歴を持つ八十祐治さんです。プロ引退後は、アマチュアとして仕事をしながらサーカーを続けていた八十さん。しかし、職場で「プロでダメでサッカーしか知らない人」といわれ、その悔しさをバネに、最難関といわれる司法試験に挑戦。見事4度目で合格し、現在、弁護士として5年目を迎えています。本気でサッカーに打ち込んで来たからこそ、司法試験の辛さにも耐えられたという八十さん。今回は八十さんに、辛くとも貫いたプロサッカー選手の道、そして、弁護士としての今後の目標ついてお話をお伺いしました。(聞き手:伊藤みづほ、菅原加良子)


    • 【プロフィール】

      八十 祐治(YUJI YASO)

      1969年大阪府生まれ。茨木高校卒業後、一浪して神戸大学経営学部に進学。大学卒業後はJリーグ発足の93年にガンバ大阪に加入。その後ビィッセル神戸、アルビレックス新潟に移籍。プロとして通算5年間プレーした後、横河電気(現・横河武蔵野FC)でプレーし、2000年に引退。引退後は、人材派遣の会社で営業をしながら、教員免許を取得したが、一念発起し、予備校に通いながら司法試験の勉強を始め、4回目の挑戦で合格を果たした。

    • 好きだからこそ、極めたい

      ────このたび"人が育つを考察する"では、人の成長について様々な方にお話を伺っておりますが、八十さんに関しましては、Jリーガー引退後、最難関といわれる司法試験に合格し、弁護士になられたと伺っております。今回は、どのようなご経験を経て現在に至ったのか、是非お話をお伺いできればと思っています。では、まず初めの質問ですが、プロフィールに一浪されて神戸大学に入られたと書かれてありました。こちらに関しましては、なぜ、一浪してまで神戸大学に入ろうと思ったのでしょうか?

      本当に生意気なのですが、僕は学校へはきちんと受験をして入りたいって気持ちがあったんです。それは、高校受験の時も一緒で、推薦を頂いていたのですが、それを断って受験をして入っています。もちろん推薦を否定するつもりはないのですが、自分の価値観というか。サッカーも一生懸命にやるけど、学生時代は勉強も負けたくないという気持ちが強かったんです。サッカーは負けなくても、勉強がボロボロだったら悔しいじゃないですか。それに、正直その時はそこまでサッカーに自信が持てなかったというのもありましたし。

      それで、高校3年生の時にサッカーの大阪選抜の監督を通じて私立大学から推薦の話を頂いたのですが、僕は、推薦ではなく自力で大学に進学したいと監督に相談をしたんです。そしたら、関西では1部リーグ2部リーグってあるんですけれども『神戸大が国立で1部だから、そこを目指したらどうや』ってアドバイスをもらって、それから勉強したんです。でも、なかなか受からなくて。それで一浪して入ることになるんです(笑)。

      ────非常に負けず嫌いなんですね。ただ、負けず嫌いであることはプロになる為の重要な条件の一つだと思います。しかし、そう簡単にプロになることはできないと思いますが、プロになろうと思ったきっかけはいつぐらいですか?

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      漠然とした気持ちは小学校でサッカーを始めたころからで、ブラジルに行ってプロになりたいと文集にも書いていたんですけれども、現実的に中高になっていくとブラジルに行く実力もないだろうし、行動力もないので、段々そういうのは消えていっていましたね。ただ、サッカーは好きで、上手くなりたいという思いは常にありました。だから、当時はJリーグもなかったので、実業団に入るとかそういうようなレベルで続けられるかなと思っていたんですけれども、大学2年の時に何年か後にJリーグが出来るとニュースが流れて、それで子どもの頃の夢が復活したんです。

      それから大学の3~4年の2年間はJリーガーになりたい、プロになりたいという思いが強くなって、本当に一生懸命練習しましたよ。4年の時の夏休みの間はガンバ大阪の練習とかにも参加させてもらったりして、積極的に行動していました。

      ────その時の選択肢は、サッカー選手1本に絞っていたのでしょうか?

      そうなんですよ。だから大学でも変人扱いされて(笑)。それに、父親も神戸の経営学部を出ていて銀行マンだったのですが、本当に頭が堅いというか。僕も神戸の経営に行ったから、銀行に行け行けと3年生くらいからずっとプレッシャーを掛けられていたんです。

      それが、父親からはっきりと『お前、どうすんねん』って言われた時に、初めて『プロになりたい』と言ったら、本当に反対されましてね。あの時は、俺がちっちゃい頃から一生懸命やってきて、やっとこうなってんのに、なんで応援してくれへんのやっと思っていましたけど、今自分が親になってみると、もし自分の息子がそう言ったら、『就職したらどうだ』って言うと思います(笑)今になってわかりますね。

      ────ただ、八十さんもそれ相応の努力を積み重ねてきたから、人から何を言われようと、諦めようとしなかったということですよね。

      そうですね。サッカーに関しては、大学に入ってからは特にそうです。中学も高校も指導者の先生がいらっしゃったので、その先生について行くって感じやったんですけれども、大学は国立大学なので専門の監督がいらっしゃらなくて、OBの方に監督になっていただいているんですね。でも、その方もお仕事をしているので土曜と日曜とか、もしくは試合だけ来てくれる人で。練習に口を出したりとか、メンバーもキャプテンが決める。という自分達で考えて全部やるという伝統があったので、大学に入ってからは指導者が居ない中で、どうしたら上手くなれるんだろうとか。私立の名門校ばかりで歯が立たない中で、どうしたら勝てるんだろう...と凄く自分で追及してやっていましたから。

      だから、大学入ってからは客観的に見て、ここがダメだとか、ここをもうちょっとこうした方がいんじゃないかとか。上手い選手と試合をしたら、あの人と自分とはまだこれくらい離れている。あのレベルに行くにはもっと練習せんといかんなという気持ちを持ったりして、それで自分も凄く伸びたと思うんです。自分で考えるようになると、視野が広がるというか。自分のプレーもそうですけれども、チームのことも考えるようになっていたので、全体を見れるようになっていましたね。

      肌で感じたプロの厳しさ

      ────Jリーガーになれる人は、ほんの一握りで物凄い競争率だと思います。プロになれる人となれない人の違いってなんなんでしょうか?

      僕も、その時は分からなかったのですが、Jリーグに入って、やっぱりプロともなるとみんな上手いんですよ。自分も上手いと思って入っていくんですけれども、その中に入ると技術が劣ったり、いろんな壁にぶつかる。その時に先輩に相談したんですね。そしたら先輩が『上手い選手とか、お前より技術がある選手はいっぱいいる。でも、試合になって90分間しっかり頑張れる選手は一握りしかいない。そういう選手は自信を持って。お前のいいところはそこだから』と言ってくれて。確かに、昔からむちゃくちゃ上手かったわけではなく、自分は試合で波がないというか、一定水準というか、上手い選手でも後半で疲れてきて、どんどんパフォーマンスが落ちる中、自分は、逆に頑張れるというところが持ち味だったので、僕の場合はそこかなと思いますね。

      それに、プロになっても僕は半分以上2軍で生活していたんですけれども、2軍の選手でも1軍の選手より上手い人がいっぱいいました。でも、試合で活かせるかというと、活かせなかったりというのがあって、プロになった中でも成功して行く人って、頑張れるというか、ここ一番で力を出せるか出せないかが大きいやろうなと思います。

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      ※Jリーガー時代の八十さん


      ────実際、プロに入ってみて、感じたことはありますか?

      やはりみんなお山の大将みたいな人が来ているので、同じチームでありながら、常に競争というかライバル視をしているんですね。僕の場合は名門校ばっかりに居たわけではないので、チームメイトも下手な奴もいたりした中で、『もっと頑張ろうぜ』とか『もっとこうした方がええんちゃうか』とか、みんなでアドバイスをしながらチームとして一つになろうぜ!ってやってきていまして、自分もそんなサッカーが好きだったんですね。

      でも、プロになってからは紅白戦とかをやると、試合後に『何であそこでパス渡さへんねん』とか、ちょっとパスがずれたら、『何でここにパス出さないんだ』とか。喧嘩になったりすることもしばしばで、みんな勝つために、自分をアピールする為に必死で、そういった部分に対して自分はアマちゃんだったと痛感しました。

      ────その後、チームを何度か変わられていますよね。

      そうですね。ガンバは2年でクビになってしまうんですね。それで、フロントといってチームの内勤で残ってもいいよと言われたんですけれども、やっぱりプロ2年目で25歳くらい。まだまだ身体も動くし、もう一回チャレンジしたいという気持ちがあったので、サッカーを辞める気になれずに、またプロテストを受け、ビッセル神戸に行くんです。でも、ビッセル神戸では半年で怪我をしてしまって、やっと治ってプレーしだしたら、すぐクビと言われてしまって。それで、次に新潟のチームに行くことになるんです。

      ────八十さんの中で、サッカーを辞めるという気持ちはなかったんですね。

      その時は無かったですね。それぐらい自分の中でサッカーの比重が大きいというか、サッカーをすることで、自分が成長出来ていると思っていましたから。でも、プロになってからは、2軍だったり怪我もあったりして、本当に苦しいことばっかりでしたね。ただ、自分の中ではチャレンジというか。厳しいとわかって飛び込んだので、負けたくないというか。それに、必ず努力をすれば上がる時が来るんじゃないかと思って辞められない、辞められないで新潟まで行ってやっていたんです。

      ────新潟のチームにはどれくらい居たのでしょうか。

      そこも2年でクビになりました。でも、どうしても辞めたくなくて、プロじゃなくても誘ってもらえるんだったら行こうと思って、そこからは3年間東京で働きながらですけれども、アマチュアとして続けていました。

      ────働きながらサッカーをしていて、将来の事をどのように考えていたんですか?

      普段月曜日から金曜日までは、昼間は仕事をして夜に練習、そして、土日に試合をしていました。それだけサッカーが好きでしたから。ただ、年齢的にも28・9歳だったし、頑張ろうとは思っていたんですけれども、どこかでサッカー人生の終わりは近いなと感じていましたね。非常に辛い決断でしたが。それで、その時に学校の先生になろうかなと思い始めたんです。

      ────サッカー選手から第二の人生へ。後編は、なぜ、弁護士になったのか、弁護士になり、今後叶えたい夢についてお話をお伺いしました。


      インタビュー後記

      八十さんのお話を伺っていて一番伝わってくるのが、思いの強さです。一見、非常に柔らかい雰囲気と優しいしゃべり口調の八十さんですが、一度決めたらブレない軸、諦めない心、そして、何より、自分自身に対して負けず嫌いという印象を受けました。人と競うのではなく、自分の弱い気持ちに負けたくない、そして、妥協したくないという思いが非常に強い。
      成長とは、人と比較しての勝ち負けではなく、自分との戦いなのだと改めて感じました。


      *続きは後編でどうぞ。
        第六回【成長の瞬間】諦めなければ夢は叶う-後編

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      聞き手:OBT協会  伊藤みづほ

      OBTとは・・・ 現場のマネジャーや次世代リーターに対して、自社の経営課題をテーマに具体的な解決策を導きだすプロセス(On the Business Training)を支援することにより、企業の持続的な競争力強化に向けた『人財の革新』と『組織変革』を実現している。