OBT 人財マガジン

2010.02.10 : VOL85 UPDATED

この人に聞く

  • 株式会社幸楽苑
    代表取締役社長 新井田 傳さん

    消費不況のさなかに増収増益。
    社員に報いる幸楽苑流オープン経営(前編)

     

    セブン&アイ・ホールディングスとイオンが今年の1月に発表した2009年の第1~第3四半期の連結決算は、両社とも減収。大手コンビニエンスストア4社もそろって減益となるなど、消費不況を象徴するニュースが今年も後を絶ちません。そのような中、増収増益を連続達成している外食企業があります。「中華そば 290円」を看板メニューに掲げる幸楽苑がそれ。1954年に福島県会津若松市の一軒の食堂からスタートし、2002年には東証二部に、2003年には東証一部に上場。2005年3月期、2006年3月期の2期は減益に陥ったもののV字回復を遂げ、右肩上がりの成長を続けています。一軒の食堂からどのようにして今日を築き、経営危機をどう乗り切ったのか。代表取締役社長 新井田 傳さんに伺いました。

  • 株式会社幸楽苑 http://www.kourakuen.co.jp/

    1954年創業。創業者の新井田司氏(現代表取締役社長・新井田傅氏の実父)が、福島県会津若松市に「味よし食堂」を開店。従業員3名、6坪の店舗からスタートする。1970年に株式会社幸楽苑に改組。1975年に会津若松市の自宅を改造して自社工場を開設。「チャレンジ100」宣言を掲げ、100店舗体制に向けてチェーン展開の基礎を築く。1978年にチェーンストア経営システムの研究会「ペガサスクラブ」に加盟。1997年に株式を店頭登録銘柄として社団法人日本証券業協会(現ジャスダック)に登録。2001年に現在の主業態である「幸楽苑」を出店。それまで展開していた「会津っぽ」「伝(きでん)」を順次「幸楽苑」に転換し、業態を一本化する。2002年に東証二部に、2003年に東証一部に上場。2006年に看板メニューである「中華そば」を390円から290円に値下げし、さらなる低価格を訴求。2005年、2006年の2年を除いて増収増益を続けている。
    企業データ/資本金:26億6166万円、従業員数/1120名(2009年12月末現在) 、店舗数/425店(2009年12月末現在)

    TSUTAE NIIDA

    1944年生まれ。1962年、「味よし食堂」に入店。「福島県一の食堂にする」という志を抱いて上京し、東京・四谷の「幸楽苑飯店」で修業。1970年に帰郷し、修業先の店名をもらって「味よし食堂」を「幸楽苑」に改名、株式会社に改組。国内1,000店体制を目指して経営の指揮を取る。

  • 「負けたくない」という強い思いが、今に至る出発点

    ────幸楽苑は創業56年目を迎え、店舗数は今や425店に上りますが、そもそもは一軒の食堂からスタートされました。今日を築かれるまでに、どのような壁を乗り越えてこられたのかを、今日はぜひお伺いできればと思います。

    「壁」という意味で最初に思い出すのは、家業を継ぐことを決心した18歳のときのことです。私は地元の進学高校に進み、当時は大学受験の浪人生活を送っていました。そして初めて、家業の様子を目の当たりにしたんですね。父が電力会社の定年後に始めた食堂で、「味よし食堂」といいますが、会津若松の繁華街にありながら来店客は毎日数名しかなく、頼りは出前の売り上げだけ。従業員3名の、雨が降ればあちこちから雨漏りするような食堂でした。

    しかも、父は当時すでに64歳。私は父が46歳のときの末っ子ですから、私が大学に進んだら父は70歳近くまで店を切り盛りすることになります。父をそんな年まで働かせるわけにはいかない、進学はあきらめて私が店を継ごう。そう決心したのです。

    同級生の9割は大学に進学する中で、私が継いだのは雨漏りがする食堂。このままで一生を終わりたくはない、「味よし食堂」を必ずや福島県一の食堂にしてみせると心に誓いました。この「負けたくない」という強い思いが私の出発点です。この思いがなければ、あのまま一軒の食堂で終わっていたでしょう。経営者としての「壁」からは程遠いものではありましたが、「このままでは終わらない」と現状を強く否定したことが、私にとっての最初の「壁」だったように思います。

    6店目で多店舗展開の壁にぶつかる

    ただ、「福島県一になる」という夢を掲げても、小さな食堂のこと。資金もなければ、人もいません。では、どうすればいいか。小さな店を数多くつくって各店の売り上げを足せば、会津若松一にはなれるのではないかと考えたんです。

    会津若松一にならない限り、福島県一にはたどり着きません。そういう発想で会津若松に小さな店を6軒つくりました。同じ業態では店同士で競合しますから、カレーライス専門店、ラーメン専門店と、業態はすべて変えた。今思えば、これがまったく素人のやり方だったんですね。6店の売り上げを足したら会津若松一にはなりましたがが、それぞれ業態が違いますから、原価率も人件費率もまったく違う。店の管理が思うようにできなくなってしまったんです。これが経営者として最初にぶつかった「壁」。私が30歳のときのことです。

    そして、悩んでいたときにたまたま書店で手に取ったのが渥美(俊一)先生(※1)の著書です。読むと、食堂業にも「立地政策」や「価格政策」「商品政策」が必要だと書いてある。そのことに非常なカルチャーショックを受けまして、これはきちんと勉強しなければダメだなと。そこで、渥美先生が主催する「ペガサスクラブ(※2)」に入会し、外食産業のチェーン展開について本格的に学びました。

    ※1 渥美俊一氏:読売新聞社会部記者を経て、1962年にチェーンストア経営システムの研究会「ペガサスクラブ」を設立。流通企業へのコンサルティングを手がけている。
    ※2 ペガサスクラブ:約700社が加盟する流通業界最大の会員制経営研究団体。

    学んだ結果行きついたのは、チェーン展開にはマス・マーチャンダイジングシステム(※3)が必要だということです。つまり、世界中からあらゆる食材を調達して、自社工場で加工して店舗で販売する。製造直販業にならなければ、どこにもない商品を、どこよりも安く、どこよりもよいサービスで提供することはできないということです。その理論を学んだ私は迷わず自社工場をつくると決め、まずは当時会津若松にあった自宅を工場に改造しました。そこで麺や餃子を製造して店舗に供給する体制をつくったのです。

    ※3 マス・マーチャンダイジングシステム:原材料の仕入れから店舗での販売までの工程を標準化し、自社でコントロールすること。200店舗以上の規模で標準化を実現することを、前出の渥美氏は「マス・マーチャンダイジングシステム」と定義している。

    ────最初はご自宅を工場にされたのですか。

    最初はそうでしたね。そこからスタートして、少しずつチェーン展開の基礎をつくっていったわけです。

    今でも思うのですが、壁にぶつかるということは、自分の知識や能力が通用しなくなるということですね。それを乗り越えるには勉強するしかありません。勉強することで壁を乗り越えたという30歳でのこの経験は、今でも私の自信につながっています。今後も壁にぶつかることがあれば、それに対する勉強をするしか乗り越える方法はない。その考えは、今も変わりません。

    年間休日を57日から105日に。大胆な改革で最高益を記録

    しかし、物事はそんなに順調にはいかないんですね。ペガサスクラブでチェーン展開理論を学んだにも関わらず、店舗がさほど増えなくて悩んだ時期もありました。自社工場をつくった後、10年以上をかけて20店舗にまでは増えましたが、そんな店舗数ではチェーンとはいえない。チェーン化が遅々として進まないわけです。

    そして昭和63年、44歳のときに決定的な壁にぶつかりました。それまで毎年、高卒者を何名か新卒採用していたのですが、その年は当社を受験する学生が一人もいなかったのです。チェーン展開をするうえで、社員を採用できないのは致命傷です。

    昭和63年といえば、バブル経済が7合目か8合目にさしかかったころ。猛烈な人手不足で、どの企業も人が採れなくて困っていた時期です。「今は採用できなくても仕方がない」といった見方をする経営者が大多数でした。しかし、私はそうは捉えなかった。経済が急成長しているから人が採れないのではなく、当社に入社するだけの魅力がないから誰も受験しないのだと。そこを直さない限り、人は採用できない。そう考えました。

    そこで早速、幹部社員を集めて合宿をしましてね。みんなで、「将来、どんな会社にしたいか」を話し合ったのです。その合宿で生まれたのが、現在の経営理念です(※4)。将来、上場を目指そうという目標も、そのときに初めて定まりました。

    ※4 経営理念:幸楽苑は経営理念として2つのミッションを掲げている。
    Mission1
    より多くの人々の
    よりふだんの食の場面に
    よりおいしい味で
    より低い価格の商品を
    より速いスピードで
    提供することに私達は喜びを持とう

    Mission2
    働く人達が、やりがいと
    生涯設計の持てる会社にしよう
    ────幸楽苑の企業サイト「経営理念」より
    http://www.kourakuen.co.jp/corporate/mission.php

    上場を目指すということは、高卒者はもちろんのこと大卒者も採用しなくてはなりません。しかし当時の当社は年間休日が57日、年間賞与は2カ月。高卒者すら受験しないこんな会社に、大卒者なんか来るはずがない。この待遇をまずは改善しようということになったのです。

    そこで、平成元年に思い切ってスターとさせたのが、「平成の大改革」と呼んでいる改革です。平成元年は57日だった年間休日を、平成2年には75日、平成3年に90日、平成4年に105日にする。4年間で48日の休日増です。賞与は平成元年の2カ月を、平成2年には3カ月、平成3年には4カ月、平成4年には4.5カ月にする。この計画を合宿でまとめ、平成元年の社員大会で発表しました。

    そうしたら、場内からざわめきが聞こえてきましてね。みんなが喜んでくれているのだと思っていたら、後で聞くところによると「そんなことをしたら、会社は倒産するのではないか」というざわめきでした(笑)。社員がそんな心配をするくらいの思い切った改革でしたが、結果は大成功です。平成4年には計画をすべて実現し、なおかつ過去最高の利益を出すことができました。

    ────勝算があっての改革だったのでしょうか。

    いえ、私も不安でした(笑)。年間休日も賞与もこんなに増やして、果たして耐えられるのだろうかと。それは不安でした。しかし結果的には、思い切った改革をしたことが大成功につながったということなんですね。この経験で得たのは、「社員の待遇を改善したからといって、会社はつぶれない。むしろ成長する」という実感です。これは今では、私の信念にもなっています。

    そして平成5年にバブルが崩壊し、大企業が一斉に採用の門戸を閉めました。たまたまそのタイミングで当社は大卒採用を開始し、大卒一期生が入社してきました。このときに、年間休日57日、年間賞与2カ月の会社のままであれば、いくら就職先がなくても大卒者は来てくれなかったでしょう。それがたまたま、バブル崩壊を予測していたわけではありませんでしたが、将来の目標に向かって一生懸命に努力をしていたら、運が向いてきたわけです。

    昨年の4月には、大卒16期生が入社しました。現在、社員数は約1100名。その6割以上を大卒者が占め、社員の平均年齢は31歳前後です。ですから、当社は昭和29年に創業して56年目を迎えますが、非常に若い会社です。この現在があるのも、平成元年に思い切った大改革に踏み切ったからこそなのです。

    390円、490円、590円。価格帯を絞り込んで成功

    ところが、今から9年前に次の壁にぶつかりました。価格競争の壁です。2000年にマクドナルドが「平日半額バーガー」と銘打って65円のハンバーガーを出しましたね。翌2001年には牛丼チェーンの吉野家が400円の牛丼を280円にした。ほかの牛丼チェーンも右へならえで、マクドナルドを筆頭に大変な低価格が世の中に出回るようになり、当社の売り上げが伸び悩み始めたのです。

    では、なぜ不振に陥ったのか。当時、当社も低価格路線を取っていたのですが、価格にインパクトがなかったんですね。まず、価格の種類が多すぎました。390円、430円、450円、470円、530円と、いろいろな価格があったわけです。ペガサスクラブのチェーン展開理論では、価格は絞り込んだほうがよいというのが定説です。それに従ってメニューをすべて見直し、390円、490円、590円の3種類に価格を整理しました。

    同時にスープの味も見直しました。当時はこってり系スープの「㐂伝(きでん)」とあっさり系スープの「会津っぽ」の2業態を展開していたものを、2つをドッキングさせた味をつくって1業態に絞り、店の外装は屋号よりも「中華そば 390円」という価格が目立つ装飾にした。こうしてできたのが、今の「幸楽苑」の原型です。

    そして、まずは大赤字を出していた不振店を実験店にして「幸楽苑」に改装したところ、月商が500万円程度だった売り上げが1000万円近くにまで伸びました。もう1店の不振店も「幸楽苑」に変えてみたら、やはり手応えがあった。これはいけるということで全店をすべて「幸楽苑」にし、一気に急成長して平成14年には東証二部に上場、翌年には東証一部に上場しました。これが今日に至るあらましです。

    後継者の不振で3期連続の減収。最大の危機を迎える

    ────東証一部上場の翌年には会長職に就かれましたが、その3年後に社長に復帰されました。

    東証二部に上場したのが58歳のときで、一部上場が59歳のとき。私のようなものがずっと社長の座にいると辞めるタイミングを失ってしまうんですね。そこで60歳を迎えるにあたって、当時、専務職にあった者に「来年、私は会長に退くから、キミが社長をやりなさい」と、社長を譲ったわけです。

    ただし、当社には古くからの掟がありましてね。「赤字決算を2期連続、または減益決算を3期連続でやったら、社長は責任を取って直ちに辞任すべし」ということを、私が現役の頃から自分自身を律するためにいい続けてきました。そうしたところ、私が社長を譲った年には197億円の売り上げで18億円の経常利益があったものが、その翌年には15億円になってしまった。3億円のマイナスですね。さらにその翌年には11億円になり、3年目の10月の中間決算では8億円になる見通しだという。3期連続の増収減益が決定的になったわけです。

    経営というのは、難しいんですね。新社長を任せた者は、23歳で入社して店舗からスタートし、現場を知り尽くしている者でした。勉強家でしたからチェーンストア理論にも精通し、どこで勉強したのかPL(損益計算書)やBS(貸借対照表)の読み方は、経理部長よりも詳しい。専務を10年間務め、特に後半の5年間はあらゆる会議で私の発言力を上回っていましたので、私は万事を託して譲ったわけです。

    ところが、それだけの能力があった者が経営をしてみたら、3期連続の減益。本人も自信をなくしたのでしょう。「社長を辞任したい」と、自分から申し出てきました。そこで、私がもう一度社長に戻ることになったわけです。このときが、幸楽苑の最大の山場でしたね。病気の患者でいえば、「生きるか死ぬか」という事態です。

    10月の取締役会で社長に復帰し、翌年3月の決算までの期間は正味5カ月。それだけの期間しかありませんでしたが、まずは何とか3億円の経常利益を上乗せして11億4000万円の増益決算に持ち込みました。そして、その決算を含めて昨年3月までに3回の決算を行いましたが、すべて増収増益です。さらに40期を迎える今年度は、店長の年収を約100万円底上げしました。こうしたことができるまでに、この3年間で幸楽苑は息を吹き返したのです。

    「生きるか死ぬか」という窮地からの、劇的なV字回復を果たした幸楽苑。新井田社長は、どのようにして経営を立て直したのでしょうか。後編では、新井田社長の業績回復の秘策を伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  消費不況のさなかに増収増益。社員に報いる幸楽苑流オープン経営(後編)

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