OBT 人財マガジン

2011.07.13 : VOL119 UPDATED

人が育つを考察する

  • 第一回【仕事を極めた人の成長プロセス-前編】自ら積極的に行動し、学ぶ

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      カフェ・ド・ランブル
      コーヒー店店主 関口一郎さん(97歳)

       

      銀座の路地裏に『コーヒーだけのお店』と書かれたオレンジ色の看板があります。
      「コーヒー以外知らないから。知らないものは提供できないの」と語って下さったのはカフェ・ド・ランブル店主関口一郎さん。学生時代からコーヒーに興味を持ち、97歳になった現在でも「美味しいコーヒー」をつくるために、と日夜研究を重ねているそうです。

    • 【プロフィール】

      関口一郎(ICHIRO SEKIGUCHI)
      1914年生まれ。早稲田大学理工学部卒業。学生時代よりコーヒーの魅力にはまり研究を始める。技術屋として様々な仕事をこなし、自らも起業したが倒産。しかし、かねてから取引関係者にお茶がわりに出していたコーヒーの評判がよく、お客様からの強い要望もあり『カフェ・ド・ランブル』を1948年に開店。現在でもお店で、日々コーヒーの試飲や焙煎を行っている。

      カフェ・ド・ランブル http://www.h6.dion.ne.jp/~lambre/index.html
      1948年(昭和23年)西銀座に開店。
      銀座で一番高い店でコーヒー1杯が90円だった当時、ランブルは100円でスタート。美味しいとの評判が広がり、遠くから来てくれるお客さんも多く、また著名人も数多く足を運んだ。表通りでなく路地の奥で店を始めたのは、銀座が昔から"イイモノ"はどんな迷路であろうとも探して見つけ出してくれるお客様がいる土地柄だったから。現在は8丁目に移転。

    • 美味しいコーヒーを飲みたい。と思う気持ちが行動に

      1948年銀座にオープンしたカフェ・ド・ランブル。コーヒー通の間で有名な店であり、長いお客さんになると50年以上も前から、
      通っている方もいらっしゃるそうです。

      興味があることを追求するのが好きと語ってくださった関口さんは、コーヒーが現在のように、あまり普及されていない大正年間に、喫茶店で淹れたコーヒーと自分が家で淹れたコーヒーの味の違いに愕然とし、「同じコーヒーなのにどうしてこんなに差があるのか」という疑問から、初めは趣味として研究を始めたそうです。
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      美味しいコーヒー屋があると聞けば、飲みに行く。実際に美味しいと思った店には足繁く通い、手土産を持って行き、仲良くなったところでコーヒーの淹れ方を教わる。美味しいといわれるコーヒー店では、奥でガリガリとコーヒー豆を挽くという音がするが、挽いてある出来合のものを使っている店は美味しくなかったことに気付いた。また、輸入コーヒー会社主催のセミナーなどに積極的に参加したり、貸し出し禁止の貴重なコーヒーの本『オールアバウトコーヒー』目当てに国会図書館へ通う毎日。当時は、まだ日本語に翻訳されておらず、辞書片手に一つ一つ自分なりに訳しながら本を読んだそうです。自宅に帰れば、早速、学んだことをチャレンジしてみる。そして、検証→再チャレンジ→検証を繰り返す。関口さんは、この時期のこの行動が、今の自分の知識の基だと語ってくださいました。現在では、オールドコーヒー(※)をつくるため、超音波の機械を使い早期熟成方法の研究をしているそうです。「その研究の為に超音波工学って本があるんだけど、どういうことだろうかと思って読んで見たら、僕が知りたかっことは1~2行しか書いてなかったよ」と笑う関口さん。

      ※オールドコーヒー:30年くらい寝かせて熟成させる生豆。

      関口さんは、美味しいコーヒーを作るために、コーヒーの事だけを学ぶのではなく、その取り巻く環境全てを勉強していました。
      例えば、コーヒーの歴史や水の研究など・・・様々な角度からコーヒーの研究をしています。「一つのことをクリアーすると、また問題が出てくるんだよね。そして、また、自身で勉強して、その壁を越える。でも、その先にはまた高い壁があるんだよ」。と語ってくださいました。

      しかし、初めからコーヒー店を開こうとは思っていなかったそうです。コーヒーはあくまで趣味。仕事に関しては、早稲田大学理工学部を卒業し、東芝の研究所に就職。当時にしては多額な大卒初任給80円という給料に惹かれて入社したものの、会社組織に馴染めず僅か3ケ月で退社。その後は日立製作所や、様々な企業で臨時のエンジニアとして働いています。「仕事は食べていく為の手段だったね。仕事では面白くてのめり込むほどの興味のあるテーマがなかったの。与えられた仕事をこなして、なんとなくやってたの」と。

    • 軍隊での生活から学んだこと

      エンジニアと趣味のコーヒーの研究をしている28歳の時、召集令状が届いたそうです。

      もらった時には「これでおわりだ...」。戦地に行けば、当然爆弾の洗礼を受ける。自然と死を意識せざるを得ない。しかし、そんな中で、「切り替えたんだよね」と関口さん。

      エンジニアだった関口さんは、兵器修理班に配属がきまり、幸いなことに直接戦地へは行かなかったものの、そこでの生活は常識では考えられない屈辱の連続だったそうです。

      初年兵の仕事は使役。本業の技術の仕事は先輩達がやってしまうため、初めは畑を耕したり、糞尿の処理、先輩の奉仕の為の手伝いや身の回りの世話(洗濯、掃除、食事の用意など)物を考えている暇が無いほど大変。しかも、少しでもまごまごするとビンタ。殴られるのは日常茶飯事、殴られない人は誰一人としていない。「この屈辱だったら、死んだ方がいい」とまで思ったそうです。極端に弱い人は耐え切れない。中には何ヶ月かに一度実家に帰れる制度があるのですが、帰省したきり戻って来ない人もいたといいます。そんな中で、関口さんは「その時に、切り替えたの。こんな常識が通用しない中で生き抜くには、自分がどれだけ耐えられるか、限界を試してみよう。切り替えようとね」と。それから、人が嫌がる仕事を率先して行ったそうです。週番上等兵が「各班で使役出ろ」と声がかかると、必ず一番に並ぶ。「一番に並ぶって決めたから」と関口さん。

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      人間誰しも嫌な仕事と好きな仕事とでは、殆どの方が、好きな仕事を自然と選んでしまうと思いますが、関口さんは、"考え方を切り替えた"といって嫌な仕事ほど積極的に取り組みます。その結果、その積極性を買われ雑用でも比較的、楽な方を回してくれるようになったそうです。もちろん人情を期待していたわけではありません。しかし、周りはよく見ていて「あいつに頼め、あいつはよくやってくれる」と。次に与えられた仕事は使役ではなく、事務仕事だったそうです。事務仕事の役割の一つに、人の采配があります。兵器修理班なので、修理・工事は誰でも出来る。しかし、その仕事を誰にふるか。要は、その修理・工事に必要な技術を即座に判断し、適した人を派遣できるか。今まで、積極的に仕事を引き受け、多くの修理・工事の現場をこなし、そして、人との関わりの中から個々の仕事の向き不向きを理解している人でないと采配できません。

      関口さんは、「なんでも積極的にやったからね。いろんなことがわかって来たんだよ」と。最終的に、殆どの仕事に携わり、関口さんが関わらなくては、誰も出来ないという仕事がいくつか出来てしまったそうです。

      関口さんはこの時の体験を「役に立つね。今、翻って少なくても、2年くらい20歳位になったら兵役のような制度に行った方がいい。ああいう生活を潜ったらすごいね。あの経験はよくても悪くても役に立つから。気配りだよ。気配りがなかったらすぐビンタだ
      からね。ただ、ビンタの本当の意味は、"諦めるな、精神的に強くなれ"っていう上の人からの思いも込められてるらしいんだけどね。」と笑いながら語ってくださいました。

      後編では、コーヒーに対しては、決して妥協しない。関口さんの"こだわり"についてお話をお伺いしました。

    取材を終えて・・・


    関口さんのお話をお伺いして一番感じたことは、"ものの見方・考え方の柔軟さ"です。

    コーヒーに対しては、"コーヒーはこうもの"という決め付けをせず、常に新しいことを学び、吸収し、実際にチャレンジする柔軟さ。一方で、戦争という状況下で苦しいことに遭遇した際に、考え方を転換し、嫌なことに対して、率先してそのことに取り組む姿勢。一見、全く違うように思えますが、固定観念に囚われず、発想の転換を行うという部分で共通していると思いました。

    人は、今まで自分の中の培ってきた知識だけで、物事を判断しがちですが、決め付けをせず、もっと深く調べてみる。そして、
    嫌いな事に関しては、実際にやってみるなど、考え方を変え一歩前に進んでみるとまた違ったものが見えてくるのかもしれません。学ぶにはまず、固定観念を捨て、様々事に積極的にチャレンジする(チャレンジして経験してみないと何事もわからないということ)ことが必要である。関口さんのお話を伺い、改めて感じました。


    *続きは後編でどうぞ。
      第一回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】美味しいコーヒーを作るためには妥協しない